鎌倉時代 中心地。 鎌倉文化と特徴

鎌倉時代の生活・暮らしについてわかりやすく【7】二毛作で銭が実る

鎌倉時代 中心地

鎌倉の場所 まず、鎌倉時代とはどんなじだいだったのか? 鎌倉時代とは、源氏と平氏が争った源平合戦のあと、源頼朝が鎌倉幕府を設立。 ここから明治維新まで680年間つづく武士の世の中が始まっていきます。 幕府を設立した源頼朝が亡くなると、将軍を継いだ二人の息子も相次いで亡くなってしまいます。 鎌倉幕府の源氏将軍は3代で途絶えてしまいました。 その後は、頼朝の奥さん・北条政子の実家の北条氏が実験を握って、執権という立場で幕府を仕切っていきました。 その頃、世界ではチンギス・ハンが建てたモンゴル帝国が勢力を伸ばしていて、世界最大の領地を手に入れていました。 そしてモンゴル帝国のうちの「元」という国がアジアにも影響力を広げようと日本に服属を求めてきます。 それどころか、2度にわたって元軍が九州へ襲来。 日本は世界最大の帝国を相手になんとか生き延びることができました。 ところが元軍を撃退したのにもかかわらず、幕府は御家人(武士)に十分な褒美を与えることができませんでした。 このことから御家人のあいだで幕府に対する不満があふれることに。 そして後醍醐天皇が討幕を全国に呼びかけることで、鎌倉幕府は滅亡へと向かっていきます。 スポンサーリンク 鎌倉ー丘陵と海に囲まれた天然の要塞 源氏にとって鎌倉とは? 鎌倉ー鶴岡八幡宮 平安時代、源頼義(頼朝より5代前)が鎌倉・由比ヶ浜へ石清水八幡宮を分祀して鶴岡八幡宮を建立したのが、源氏と鎌倉のはじまり。 これ以降、鎌倉が源氏の拠点となっていき、頼朝の父・義朝も鎌倉に邸宅を建てていました。 平治の乱で義朝・頼朝親子は平清盛と対立して敗北。 義朝は殺害され、頼朝は伊豆へ追放されます。 平清盛とその一族によって政治が支配されていて、これに公家や武士たちは不満をもっていました。 のちに以仁王(もちひとおう)によって平家討伐の命令をうけて、頼朝は伊豆を脱出。 房総半島の安房へと逃亡。 そこで千葉常胤の支援を受けて、源氏ゆかりの地である鎌倉に入りました。 そして頼朝は自分の邸宅として「大倉御所」を建設。 これが鎌倉幕府の始まりと言われています。 鎌倉城とは? 鎌倉ー朝夷奈切通し では戦国時代のお城のように堀や土塁で守らなかったら、鎌倉をどのように守っていたのでしょうか? 鎌倉は三方向を丘陵に、南側を海に囲まれた年でした。 北・東・西を囲む丘陵は鎌倉にとって天然の城壁になっていて、さらに斜面を削ることで人口のガケ(切岸)にしてより越えにくくしていました。 鎌倉へとつながる道は7つに制限されていて、さらにそれらの道を細くすることで防御に有利になるようにしていました。 極楽寺坂・大仏坂・化粧坂(けわいざか)・亀ヶ谷坂・巨福呂坂(こぶくろざか)・朝夷奈(あさひな)、名越坂の7つの切通しです。 さらに狭い通路になっていた切通し周辺に、切岸や堀切、竪堀などを作っていて防御力をアップさせていました。 新田義貞の鎌倉攻め 鎌倉時代末期、後醍醐天皇の倒幕に応じた新田義貞が上野国(群馬県)で挙兵、幕府の本拠地・鎌倉を目指していきます。 鎌倉までの途中、小手指原の戦いや分倍河原の戦いなどで義貞は幕府軍と戦い、破っていきました。 5月8日に挙兵した後、5月18日に義貞は鎌倉へ到着しています。 そして義貞は軍を3つに分けて三方向から鎌倉を攻撃。 極楽寺坂、化粧坂、巨福呂坂切通しの3つです。 しかし幕府軍の必死の抵抗と、切通しの防御力の高さから新田軍はなかなか鎌倉へ侵入することができませんでした。 そこで義貞は極楽寺坂より南の海岸沿い、稲村ヶ崎から鎌倉への侵入を試みました。 5月21日未明、義貞は干潮で歩けるようになっていた稲村ヶ崎から鎌倉へ侵入することに成功。 このときの執権・北条高時は東勝寺で一族とともに自害。 ここに鎌倉幕府は滅亡しました。 スポンサーリンク 元軍の上陸阻止のために作られた元寇防塁 元寇とは? 元寇ー蒙古襲来絵詞 元寇(げんこう)とは、1274年と1281年の2回にわたって 「元」が九州へ攻めてきたこと。 元とは、チンギス・ハンの孫でモンゴル帝国5代皇帝に即位したフビライ・ハンが国名を「大元」に変えたことで成立した国です。 そしてフビライ・ハンはアジアでの影響力を高める目的で、日本に死者を送って服属を要求。 しかしこの時の執権・北条時宗はこれを黙殺。 ここから元軍の九州襲来へとつながっていきます。 1274年、最初の元寇(文永の役)では、元軍は博多湾に上陸。 集団戦法や火薬を使う元軍に日本の武士は苦しめられていました。 それでもなんとか撃退することに成功。 最初の元寇に失敗したフビライだったけど、ぜんぜん諦めてなくて再度日本に服属を要求してきます。 しかし時宗の考えは変わらず、元からの使者を切って対決姿勢を明確にしました。 元が再び攻めてくることに備えて築かれたのが「元寇防塁」です。 世界最強の元軍をはねのけた元寇防塁 元寇防塁 再度の元軍襲来に備えて築かれた「元寇防塁」 防塁は高さ2〜3m、幅2mで、博多湾沿岸に約20kmにわたって築かれました。 この防塁で元軍の上陸を阻止する目的がありました。 1281年、再び元軍がやってくると(弘安の役)、防塁が効果を発揮。 元軍の上陸を阻止しました。 上陸に失敗した元軍は博多湾の海上で寝泊りすることになりました。 そこへ暴風雨が元軍を襲い、船は次々と沈んでいきました。 元寇防塁と暴風雨によって、日本は再び元軍を撃退することに成功しています。 スポンサーリンク 鎌倉時代のお城 まとめ 今回は「鎌倉時代のお城」について解説しました。 鎌倉時代のお城の特徴は次の3つがありました。

次の

鎌倉幕府成立から滅亡まで。鎌倉で幕府ゆかりの史跡スポットを歩く旅13選

鎌倉時代 中心地

鎌倉時代の宇都宮 平安時代末期、壇ノ浦の戦いで平氏を、また、東北地方に勢力を持っていた奥州の藤原氏を滅ぼした源頼朝は、1192年に朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されました。 頼朝は鎌倉幕府を開き、 諸国に守護・地頭を置いて武士の政治のもとを作りました。 幕府が滅びるまでの約140年間を鎌倉時代といいます。 鎌倉時代の『吾妻鑑』という書物に、「源頼朝は奥州藤原氏を攻めるにあたり、宇都宮の古多橋に宿泊し、宇都宮大明神に参拝して戦勝を祈願した」という記録が残っています。 二荒山神社は、いくさの神として各時代の武将達から崇拝されました。 宇都宮の中心地は、鏡が池と呼ばれる水辺をはさんで北に二荒山神社を中心とする聖なる場所が、南に宇都宮城を中心とする政治的な場所が向かい合っていました。 その東を奥州に向かう奥大道が通り、道に沿って宿が成立していたと考えられます。 宇都宮氏は、宇都宮城を拠点とし、宇都宮大明神(二荒山神社)の宗教的権威と神領の支配を通じて勢力を拡大していきました。 鎌倉時代には、評定衆や引付衆を勤める幕府の有力な御家人になっていました。 宇都宮氏は、下野から常陸にかけての領地のほかに、伊予(愛媛県)・豊前(大分県)の守護領や荘園をもっていました。 分家が増え管理する寺社も多くなったため、1283年、これらを治めるために70か条からなる弘安式条を制定しました。 これは、中世における武家法の草分けとされるものです。 また、同じころ、現在の竹下町には芳賀氏の城として飛山城が築かれています。 宇都宮氏の祖とされている藤原宗円から3代目の朝綱のころには宇都宮氏を名のるようになり、地名にも使われるようになったといわれています。 宇都宮氏は22代続きますが、この時代の城主の中には、百人一首の成立にかかわった5代頼綱、元寇の際に日本軍の大将軍となった8代貞綱などがいます。 頼綱が城主の頃、幕府から謀反の疑いをかけられる事件がおこりました。 頼綱はやむをえず出家して蓮生と名のり、京都に住むようになります。 そこで歌人として有名な藤原定家と親しくなり、蓮生の娘と定家の息子は結婚して親せきとなりました。 当時、神社・仏閣や自宅のふすまに和歌を書いた色紙をはることがはやっていましたが、蓮生はこれを定家に頼みます。 このときまとめられたものが元になって、現在の小倉百人一首ができていくのです。 宇都宮氏とその一族からは、多くの歌人が出ています。 歌集『新古今和歌集』は、一族のほかに鎌倉、京都の歌人の歌もおさめられているもので、宇都宮一族の幅広い文化交流の様子を知ることができます。 このような、宇都宮一族を中心とする歌人集団は宇都宮歌壇とよばれています。 しかし、1333年に幕府が滅ぶと、宇都宮への文化的中継地を失い、また、戦乱の時代に、和歌に遊ぶ余裕もなくなって活動はおとろえてしまいます。

次の

鎌倉幕府成立から滅亡まで。鎌倉で幕府ゆかりの史跡スポットを歩く旅13選

鎌倉時代 中心地

天下をとった足利家の歴史を考えると、屋敷跡は石碑しか残っていないというのは、なんだかとても寂しいですね。 室町時代の前半、鎌倉公方として関東一円に力を及ぼしていた足利家の屋敷があった場所です。 胡桃谷の東側の街道に沿った一帯が、屋敷跡になります。 地元の人は、この辺りのことを「お屋敷」って呼んでいます。 足利尊氏がこの地を選んだのは、祖の足利義兼が鎌倉幕府開設の時、この地に住んでいたことから、この地に館を構え、足利義詮(あしかがよしあきら)を住まわせました。 1338年(延元3年・暦応元年)、京都に室町幕府を開いた足利尊氏は、地方の勢力を抑えるために九州と東北に探題を設置し、鎌倉時代からの政治軍事の中心地である鎌倉には鎌倉府を設置しました。 足利尊氏の子、基氏(もとうじ)を鎌倉府の主として鎌倉公方とし、関東8ヶ国、甲斐、伊豆の10ヶ国を収めました。 以後、基氏の子孫が代々鎌倉公方となり、足利成氏(あしかがしげうじ)が下総(しもうさ)の古河(こが)に移り住むまで、鎌倉は東国の中心として栄えました。 写真撮影:2009年02月17日 足利公方屋敷跡 バス停泉水橋下車 徒歩3分 足利公方屋敷跡 鎌倉の観光名所を紹介する石碑、どうしてこんなに立派な石碑が各所に建てられているのか不思議に感じます。 どこに行っても、ほとんど同じデザインの石碑が建てられています。 碑文によれば、1920年(大正9年)3月、鎌倉町青年会で建てた石碑です。 鎌倉公方屋敷は、『新編鎌倉志』、『新編相模風土記』などに記載されています。 関東将軍と呼ばれていた足利鎌倉公方に次いで大きな力を持っていたのは、執事の上杉氏でした。 上杉氏は多くの家に分かれていて、一族のうちの扇ガ谷(おうぎがやつ)、宅間(たくま)、犬懸(いぬがけ)、山ノ内(やまのうち)の4家で、足利鎌倉公方の政治を助ける関東管領(かんとうかんれい)の職を務めました。 写真撮影:2009年02月17日 足利公方屋敷跡 バス停泉水橋下車 徒歩3分 足利公方屋敷跡 足利公方屋敷跡の石碑の碑文は、読み取りづらいですねー。 もう少し彫りが深ければ、コントラストがハッキリして読みやすいんだけど。 頼朝開府ノ初足利義兼居ヲ此ノ地ニトシテ以来 二百数十年間子孫相嗣イデ此ニ住ス 尊氏覇ヲ握リテ京都ニ遷ルノ後 其ノ子義詮二代将軍トナリテ京都ノ邸ヲ嗣ギ 義詮ノ弟基氏関東管領トナリテ 兵馬ノ権ヲ此ノ邸ニ執ル 而シテ之ヲ子孫ニ伝フ子孫 京都ニ比擬シテ公方ト僭称ス 享徳四年公方成氏執事上杉憲忠トノ不和ノ事ヨリ 下総古河ニ遷ルニ及ビテ遂ニ永ク廃虚トナル こんな感じのコトが書いてありました。 改行とか加えちゃったんだけど、間違えたところに加えてたらスマン! 気になったのが、最後の「永ク廃墟トナル」。 こんな住宅地に廃墟があったなんてー!! 写真撮影:2009年02月17日 広告 メインコンテンツ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 広告.

次の