ロサンゼルス オリンピック。 1984年ロサンゼルスオリンピックの陸上競技

オリパラこぼれ話:1932年ロサンゼルス五輪馬術 「競技よりも愛馬」に称賛

ロサンゼルス オリンピック

障害飛越の西とウラヌス• 初めてが建設されたが、使用できたのは男子選手のみであった。 開会宣言は。 選手宣誓は。 が長を務めた。 で初めて装置が用いられた。 全ての計時を一社が担当する事になり、委託されたはで検定された30個のを用意した。 に参加した国は、開催国のアメリカ合衆国およびインド、日本の3ヶ国にとどまったため、3ヶ国でリーグ戦を行いインド、日本、アメリカの順でメダルが決定した。 五輪三大会連続出場のエース、のはアマチュア規定に抵触のため、参加が認められなかった事でも知られる。 男子は、日本勢が400メートル自由形をのぞく5種目を制した。 のグランプリ障害飛越競技では、日本の中佐が愛馬のを駆って金メダルを獲得。 当時の馬術競技は大会最終日にメイン・スタジアムで行われる花形競技であり、『バロン・ニシ』の名前は一躍有名となった。 また同じく総合馬術競技耐久種目に出場した中佐は、愛馬の疲労が著しく、どうしても障害を飛越しなかったため、完走直前でやむなく途中棄権した。 これが「競技より馬を優先した」と受け取られ、動物愛護の観点から勝者に劣らぬ賞賛を受けた。 東京・大阪のは日本選手団の応援歌を公募した。 当時17歳の少年の詩が当選し、が作曲を担当し「走れ大地を」の曲題がつけられた。 開会2ヶ月前にからの歌唱で、レコードを発売。 日本選手団が躍進したこともあって売上、評判ともに上々で、次のベルリン大会の際にも再発された。 日本から3人のアナウンサーが、ラジオ放送のために派遣されたが、アメリカオリンピック委員会ととの交渉が決裂したため、実況生中継ができなくなってしまった。 そこで、アナウンサーが競技の模様をメモに記録し、スタジオに戻ってから、そのメモを元に、あたかも実況中継を行うように放送する、「実感放送」が行われた。 のちに作家となったが早大競艇部員としてボート競技に参加しており、この時選手団の中にいた陸上競技選手の女性に恋をした経緯を綴った小説が『』(1940年発表)である。 実施競技 [ ]• この大会ではは開催されなかったが、その理由は、大会前年にIOCが選手が競技会に参加する場合に休業補償をしない事を決めたにもかかわらず(FIFA)が補償をおこない、IOCの決定に反した行為を行った為であった。 競技会場 [ ]• エクスポジション・パーク• スイミング・スタジアム• オリンピック・オーディトリアム• リバーサイド・ドライブ• ロングビーチ・マリンスタジアム 各国の獲得メダル [ ] 1500m競泳。 金の北村(右)と銀の牧野• 金メダル• (日本、陸上男子)• (日本、競泳男子100m自由形)• (日本、競泳男子1500m自由形)• (日本、競泳男子100m背泳ぎ)• (日本、競泳男子200m平泳ぎ)• 宮崎康二・・・(日本、競泳男子800m自由形リレー)• (、男子)• エディ・トーラン(アメリカ、陸上競技男子)• (、陸上競技男子)• (、陸上競技男子)• (アメリカ、陸上競技女子80mハードル)• ミルドレッド・ディドリクソン(アメリカ、陸上競技女子)• (アメリカ、女子100m)• ヘレーネ・マディソン(アメリカ、競泳女子400m自由形)• (、男子79kg級)• イバール・ヨハンソン(スウェーデン、レスリング男子72kg級)• (、男子)• (、ボート男子)• (男子団体)• 銀メダル• (日本、陸上男子)• (日本、競泳男子100m自由形)• (日本、競泳男子1500m自由形)• (日本、競泳男子100m背泳ぎ)• (日本、競泳男子200m平泳ぎ)• (日本、競泳女子200m平泳ぎ)• ・・・・・・・・・・・・・(日本、男子ホッケー)• (アメリカ、陸上競技男子走高跳)• ミルドレッド・ディドリクソン(アメリカ、陸上競技女子走高跳)• (イギリス、フェンシング女子個人)• 銅メダル• (日本、陸上男子)• (日本、陸上男子三段跳)• (日本、競泳男子400m自由形)• (日本、競泳男子100m背泳ぎ)• (アメリカ、陸上競技男子400mハードル)• (ドイツ、陸上競技女子槍投げ) 脚注 [ ].

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1984年ロサンゼルスオリンピック

ロサンゼルス オリンピック

急遽出場も20人中16人がプロ入りした豪華メンバー 1984年に開催されたロサンゼルスオリンピック。 公開競技として行われた野球で、日本代表は見事に金メダルを獲得した。 当時の代表メンバーと結果を振り返る。 1980年のモスクワ五輪を西側諸国がボイコットした報復として、ソ連がロサンゼルス五輪をボイコット。 当時「アマチュア世界最強」と評されていたキューバも同調してボイコットしたため、代表決定戦で台湾に敗れて出場を逃していた日本が追加招集された。 急遽、編成された五輪代表は表の通り、社会人13人、大学生7人のアマチュア選手。 20人中16人が後にプロ入りするという豪華メンバーだった。 アメリカとの決勝に進んだ。 1984年8月4日。 決勝の会場、ドジャースタジアムは開催国・アメリカの優勝を信じて疑わないファンで埋まっていた。 当時のアメリカ代表には、後にメジャーでシーズン70本塁打の新記録を樹立するマーク・マグワイアや、巨人でも活躍するシェーン・マックらが名を連ねていた。 試合は3回裏にアメリカが1点を先制したが、日本は4回表、広澤克己の中前タイムリーで逆転。 打者陣のプロ通算成績はソウル組上回る これまで五輪に出場したオールアマの日本代表チームでは、銀メダルに輝いたソウル五輪代表が「ドリームチーム」と称され、最強説が根強い。 後に名球会入りする選手が野茂英雄、古田敦也、野村謙二郎と3人もいたのだから、インパクトが強かったのは当然だ。 しかし、メンバーのプロ通算成績を合計すると、打者に関してはロサンゼルス組の方が高い実績を残している。 正田耕三、広澤克己、和田豊が1500本以上の安打を放っており、合計7627安打。 本塁打も306本の広澤克己を筆頭に合計653本塁打。 打点も同様に2872打点となっている。 ソウル組の合計は6498安打、566本塁打、2753打点だから3部門ともロサンゼルス組が上回っているのだ。 ちなみに投手陣を比較すると、ロサンゼルス組の合計は248勝37セーブ。 ソウル組の440勝92セーブには及ばない。 やはり日米通算201勝を挙げた野茂英雄の存在が大きい。 《関連記事》 ・オリンピック野球、歴代日本代表を紹介 ・【侍ジャパン】吉田正尚の鮮烈デビューで外野がますます激戦に ・ソフトバンクのサブマリン・高橋礼、侍ジャパンの秘密兵器へ ・柳田、吉田、山川…東京五輪のクリーンナップは?筒香の米挑戦次第で複数選手が候補に ・オリ・山本、日ハム・西川、DeNA・宮﨑 侍ジャパンでの活躍が見たい3人の実力者.

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ロサンゼルスオリンピック |1984年ロサンゼルスオリンピック 夏季オリンピック

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競技よりも愛馬を思いやる行動で称賛された城戸俊三氏=1957年撮影 「日本体育協会・日本オリンピック委員会100年史」などによると、城戸選手は陸軍騎兵学校の教官で馬術日本チームの主将を務めていた。 総合馬術は3日間にわたり、調教やクロスカントリーでの持久力などを競った。 城戸選手は愛馬「久軍(きゅうぐん)号」とともに出場していた。 アクシデントが起きたのは2日目のクロスカントリー中だった。 走行距離約32キロのコース中にある障害物を越えてゴールする過酷なレース。 ゴールまで残り約2キロ地点で、障害物を前に城戸選手は久軍号の異変に気付いた。 馬体全身に多くの汗をかき、急に呼吸が荒くなり、いかにも苦しそうな仕草を見せた。 ムチを打ってゴールを目指すこともできたがレースを終える決断をした。 下馬した城戸選手の肩に顔をうずめる久軍号の姿に審査員ももらい泣きしたという。 城戸選手は別の馬で出場する予定だったが故障により、4年前のアムステルダム五輪の総合馬術でともに戦った久軍号に再騎乗した。 久軍号は人間でいえば60歳ほどに当たる19歳の高齢馬で予備馬だったという。 当時の東京日日新聞(現毎日新聞)号外は「疲労した愛馬をいたはつて(いたわって)棄権」と報じ、この模様が地元紙に掲載されたことなどを紹介した。 城戸選手の行為に感動したアメリカ人道協会は、銅製の記念碑をつくり、愛馬精神をたたえた。 64年の東京五輪を機に記念碑は日本に渡り、現在、日本オリンピックミュージアム(東京都新宿区)で展示されている。 城戸選手は宮城県生まれ。 ロサンゼルス五輪後は34年から46年まで旧宮内省に勤務し、昭和天皇や皇太子さま(現上皇)らの乗馬指導を行った。 また、馬術関係団体の役員を歴任し、日本馬術界に貢献した。 86年10月に97歳で亡くなった。 【関根浩一】.

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