当時はありませんでしたが、ここ10年ぐらい「2分の1成人式」という言葉をよく聞きます。 思い返せば、ケンとリュウも10歳を境にぐっとコミュニケーションがとれるようになりました。 ただ、イメージは泣いてばかりいる赤ちゃんが2歳頃からちょっとコミュニケーションをとれるようになった感覚に近いです。 「嫌なものは嫌」だった2人が少しだけ「なぜ嫌なのか」を話してくれるようになったのです。 しかし、その理由は「白い線しか踏まない横断歩道」だったり「1回触ったら、もう1回触る」という儀式のような理由で、私はなかなか理解できませんでした。 宿題をするのでも、「あの鉛筆じゃないとできない。 買ってきて!」と言うのですが、私にはどの鉛筆でもできる、ただ宿題をやりたくないだけの理由だと叱っては親子関係がくずれていきました。 結局、鉛筆を探して見つかった時にはもう眠たくなっていて宿題どころではなく、翌日の憂鬱につながりました。 そんなやりとりを繰り返していると、実際に、その鉛筆を買ってきたらすぐ宿題を終えるという現象も起きました。 親にとって何が正解かわからないのですが、そのこだわりの強さを自分では調整ができず、彼らは今でもその生きづらさを抱えています。 自分で自分がコントロールできない様子は、ブログ「7人家族の真ん中で。 」での過去記事でも描いていましたが… 実はその後、リュウは何回でも自分の不注意で彼女の指を切ってしまって彼女が「痛いっ!」と手を引っ込めたシーンが脳内で再生されては、苦しむという現象が続きました。 (俗にフラッシュバックと言われる現象でしょうか?)リュウが申し訳ない気持ちでいっぱいになるのはわかるけれど、それが1週間経っても1ヶ月経っても1年経っても、当事者の彼女が忘れてしまっても、その瞬間を思い出しては苦しんで落ち込むことがありました。 親としては「ええ加減にせえよっ!」とツッコミたいところですが、なかなか乗り越えることはできませんでした。 幼い頃と比べると、親の言うことは理解できるようになってきましたが、思考回路が独特で社会適合が難しくなってきたのはリュウの方が先でした。 〜6年生時代〜 6年生に進級し、ケンとリュウの関係が変わってきた。 同じクラスでケンに3人の友だちができた。 類は友を呼ぶで、3人ともおとなしい男の子だった。 ケンは漫画やゲーム、PCで得た豊富な知識をもって彼らを喜ばせ、学校では苦手な給食を先生にバレずに食べてもらうことに成功していた。 アウトドアが苦手だったケンに、自転車での遠出の仕方や電車の乗り継ぎを教えてくれたのも彼らだった。 彼らは学校の成績も良く、ケンの勉強にもよく付き合ってくれた。 今、思い返してもこの6年生での1年間は、ケンがいろんなことに挑戦し、一番イキイキしていたように思う。 一方、リュウはその頃からいじめにあっていた。 私は、数年前 発達障害のことを新聞で読み、知り合いにあまりによく当てはまるので、初めて 発達障害ではないかと思いました。 夫に話すと「オレも発達障害かもしれない」と言い出しました。 そういえば、いくらやめてと言っても話がとまらないとことか、多少あるかもしれない。 そして、理解すると、やっと知り合いも夫も変えられないということがわかり、私の心は安らぎました。 知り合いには困らせられてるとしか思えなかったのが、この人も長いこと生きずらかったのかも(本人も家族も知らない)と、思えるようになりました。 夫は、ちょっと変わってるけど、相談事などではすばらしい回答をくれるし、生活力があるので何かあってもこの人とならだいじょうぶ乗り切っていけると思うし、私にとっては必要かつ大事な人です。 子供たちや孫にも慕われています。 それに、発達障害的な部分は私を含め誰でもあると思うようになり、人間に対する見方が変わりました。 そして、物事は、理解することが大事なんだと思うので、この記事も、むさぼるように読んでいます。 ファッジさんのご苦労とかとても簡単にはコメントできませんが、一生懸命読んでます 初めまして。 ファッジさんのNOTEに出会い、自分の子育てを改めて振り返っています。 今は成人した私の息子にも軽度の発達障がいがあり、子育ては思うようにならない連続で、 親としての素朴な期待を一つずつ諦めていく日々でした。 今思えば、人間としての美しい心をたくさん持ち合わせていた息子なのに、普通であることに固執していた私は、いつも息子を叱り、絶望し、自分がいちばん辛い思いをしていると思っていました。 自分でも自分をコントロールできず、苦しんでいたのは息子だったのに。 母親は必死になるあまり、子育てが「闘い」になってしまいますね。 私も闘っていました。 若かったんだと思います。 それが精一杯の愛情でした。 一口に発達障がいとか不登校とか言っても、その子によって状況は様々で、他のケースがそのまま参考にならないことも多いです。 でも、母親の思いは共通する部分が大きいのかも などと勝手ながら考えます。 ファッジさんが文章に綴ってくださるおかげで、私も昔の自分自身と向き合うことができます。
次のほっとしたら、涙が出た。 この追いかけて来てくれたおじさんは お義母さんの4人姉弟の末っ子の弟さんだった。 私はこの時のこの言葉にとても救われた。 てか、このおじさんがいなければ 結婚してなかったかもしれない。 結婚は当人同士がちゃんとしていれば その家族なんか後からついてくるものだと思っていた。 でも、違っていた。 結婚後も、私はこのおじさんにとてもお世話になった。 いつも私の味方になって嫁姑の間に入ってくれた。 しかし、残念ながら叔父さんは 姉であるお義母さんとおばさんを追い抜いて、 癌を患い他界された。 3人の娘さんがいて、末娘さんが私と同じ年だ。 そのせいか私のことも、最後までよく気にかけていてくれた。 私のもう一人のお父さんのようだった。 (つづく).
次のこんにちは、ブログ管理人バニラファッジ です。 ブログを始めて15年目に突入しました。 お義母さんとおばさんを看取り今では「5人家族の上から2番目」になりましたが、本家ブログはこれからも更新していきます。 引き続きご愛読よろしくお願いします。 そして、noteへようこそ。 こちらは「7人家族の真ん中で。 」では描けなかったことを更新していきます。 主に途中からブログに登場しなくなったケンとリュウがメインになります。 有料記事になりますが興味のある方はぜひ登録してください。 今年の3月22日で、ケンとリュウは24歳になりました。 2人は小学4年生の夏休みに青少年相談センターで検査を受けて発達障害のグレーゾーンと言われました。 しかし、その結果に「僕も発達障害かもしれない。 」とダンナが言い、夫婦で笑いあった記憶があります。 そのことからもわかるように我が家は、その結果をあまり深刻に受け止めていませんでした。 どんな専門家よりも「発達障害」に詳しい父親がここにいるんだから、と。 しかしあれから15年が経ち、ケンもリュウも俗に言う「ひきこもり」になりました。 なので、ここで書くお話は、発達障害の子育てサクセス・ストーリーではありません。 たった24年の間に彼らは両親とのボタンのかけ違いでたくさんの辛い思いをしてきました。 死にたくなったこともありました。 いつもそばにいた私は手を繋ぐことも手を離すことも許されず七転八倒の子育てをしてきました。 ただ、ケンがぽつりと言ったひとことで私の息苦しさは180度変わりました。 そして、小学校の教員で、発達支援のお子さんを週一回支援する教室で担任をしています。 ですから、ケン君リュウ君、そしてクリームさん、義母子さんと色濃く特性をもっていらっしゃるなぁと思って記事を拝見していました。 偏食のエピソード、こだわりの強さ、触覚過敏もおありかな。 感覚過敏が強い方は集団生活は辛いので。 数字に色やイメージがあるなんてこともおっしゃってましたよね。 「僕には数字が風景に見える」というASDでサバァン症候群の方が書いた名著を思い出しました。 ケン君リュウ君の小さい頃の記事を読むと私の教室に通って来て〜と思ってしまいます😄 ファッジさん、介護をしながらの子育て、本当にお疲れ様でした。 才能溢れる2人だからきっと大丈夫です。 これからも楽しみにしています。 本編のブログでは、ファッジさんの芯の強さを見倣いたいと、苦しくなるたび支えていただきました。 一息ついたかと思った矢先、比較的均質性の高かった職場で、突然に<適応障害>の部下を持つことになり、いつもと違うことを受け容れることに格闘してきました。 三年ほど経ち、限定された経験で私なりに思うのは、この〇〇障害というものは、実際の様々な人びとと交流していけばいくほど、その日本語の響きほど重いものでは本来なくて、<重たく>させているのは、日本のマジョリティシステムで暮らす人々の意識なのではと思うのです。 私は、その特徴は、マジョリティシステムでない場を見出した時に、誇りの大きな源になると思っています。 また、この言葉をつけた方に、日本のマジョリティシステムの歪みも感じ取ります。 その一連の体験と発見は、私をとても成長させてくれました。 雪が降る桜の咲く東京で、辻井さんの音楽を聴きながら、見つけた記事を添付させていただきます.
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