オー センティ シティ。 Authenticity 自分らしさ

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真正性 79. に基づいて推薦される資産は の条件を満たすことが求められる。 オーセンティシティに関する奈良ドキュメントを含む付属資料4には、資産の真正性を検証するための実践的な原則が示されている。 以下にその要約を示す。 遺産が備えている価値を理解できる程度は、この価値に関する情報源がどの程度の信用性、真実性を有すると考えられるかに依存する。 文化遺産の本来の特質と後年の変化に関連してその情報源を知り理解することは、真正性に係るあらゆる側面を評価する上での要件である。 文化遺産が備えている価値についての判断は、関連する情報源の信用性と同様に、文化ごとに異なる場合があるほか、単一の文化内においてさえ異なることが間がえられる。 全ての文化は等しく尊重されるべきであることから、文化遺産の検討、判断は、第一義的には自身の文化的文脈において行われなければならない。 文化遺産の種類、その文化的文脈によって一様ではないが、資産の文化的価値(登録推薦の根拠として提示される価値基準)が、下に示すような多様な属性における表現において真実かつ信用性を有する場合に、真正性の条件を満たしていると考えられ得る。 ・ 形状、意匠 ・ 材料、材質 ・ 用途、機能 ・ 伝統、技能、管理体制 ・ 位置、セッティング ・ 言語その他の無形遺産 ・ 精神、感性 ・ その他の内部要素、外部要素 83. 精神や感性といった属性を、実際に真正性の条件として適用するのは容易ではないが、それでもなお、それらは、例えば伝統や文化的連続性を維持しているコミュニティにおいては、その土地の特徴や土地感を示す重要な指標である。 これらの情報源をすべて利用すれば、文化遺産の芸術的側面、歴史的側面、社会的側面、科学的側面について詳細に検討することが可能となる。 「情報源」は、文化遺産の本質、特異性、意味及び歴史を知ることを可能にする物理的存在、文書、口述、表象的存在のすべてと定義される。 資産の登録推薦書を作成するなかで真正性の条件を考慮する場合は、締約国は、まず最初に、該当する重要な真正性の属性をすべて特定する必要がある。 真正性の宣言において、これらの重要な属性のひとつひとつにどの程度の真正性があるか又は表現されているかを評価すること。 真正性に関し、考古学的遺跡や歴史的建造物・歴史的地区を再建することが正当化されるのは、例外的な場合に限られる。 再建は、完全かつ詳細な資料に基づいて行われた場合のみ許容され得るものであり、憶測の余地があってはならない。 完全性 87. 世界遺産一覧表に登録推薦される資産は全て、完全性の条件を満たすことが求めらる。 決議 20 COM IX. 13参照 88. 従って、完全性の条件を調べるためには、当該資産が以下の条件をどの程度満たしているかを評価する必要がある。 a 顕著な普遍的価値が発揮されるのに必要な要素がすべて含まれているか。 b 当該資産の重要性を示す特徴を不足なく代表するために適切な大きさが確保されているか。 以上について、完全性の宣言において説明を行うこと。 また、資産が有する価値の総体を現すのに必要な要素が、相当の割合包含されていること。 文化的景観及び歴史的町並みその他の生きた資産については、これらの独自性を特徴づけているや動的な機能が維持されていること。 に基づいて登録推薦される資産に係る完全性の条件の適用例については、現在作成中。 までに基づいて登録推薦される資産は、全て、生物物理学的な過程及び地形上の特徴が比較的無傷であること。 しかしながら、いかなる場所も完全な原生地域ではなく、自然地域は全て動的なものであり、ある程度人間との関わりが介在することが知られている。 伝統的社会や地域のコミュニティーを含めて、人間活動はしばしば自然地域内で行われる。 そのような活動も、生態学的に持続可能なものであれば、当該地域の顕著な普遍的価値と両立し得る。 以上に加えて、に基づいて登録推薦される資産は、各基準毎に完全性の条件が定義されている。 に基づいて登録推薦される資産は、顕著な普遍的価値を有すると同時に、資産の美しさを維持するために不可欠な範囲を包含していること。 例えば、滝を中心とする風景の場合、資産の美的価値に一体的に結びついた隣接集水域及び下流域を包含していれば、完全性の条件を満たす可能性がある。 に基づいて登録推薦される資産は、関連する自然科学的関係において相互に関連し依存した鍵となる要素の全て又は大部分を包含していること。 例えば、「氷河時代」の地域であれば、雪原、氷河そのもの及び氷食形状、堆積、棲みつきのサンプル(例えば、条線、モレーン、植物遷移の初期段階等)を包含していれば、完全性の条件を満たす可能性がある。 また、火山の場合は、溶岩起源鉱物の完全な変形シリーズが残っており、噴出岩の種類や噴火の種類の全て又は大部分が代表されていれば、完全性の条件を満たす可能性がある。 に基づいて登録推薦される資産は、生態系及びそこに含まれる生物多様性を長期的に保全するために不可欠なプロセスの鍵となる側面を現すために十分な大きさをもち、必要な要素を包含すること。 例えば、熱帯雨林地域は、ある程度の標高変化、地形・土壌型の変化があり、パッチの系及びパッチの自然再生が見られれば、完全性の条件を満たす可能性がある。 同様に、サンゴ礁であれば、例えば、海草やマングローブ、又はサンゴ礁への栄養塩や堆積物の流入を制御するその他近隣生態系を包含すれば、完全性の条件を満たす可能性がある。 に基づいて登録推薦される資産は、生物多様性の保全にとって最も重要な存在であること。 生物学的に見て、最も多様性・代表性の高い資産のみがこの基準を満たし得ると考えられる。 関係する生物地理区、生態系の特徴を示す動植物相の多様性を最大限維持するための生息環境を包含していることが求められる。 例えば、熱帯サバンナの場合であれば、共進化した草食動物と植物の組み合わせが完全に残っていれば、完全性を満たす可能性がある。 また、島嶼生態系の場合であれば、固有の生物相を維持するための生息環境を包含すべきである。 広い生息域をもつ種を含む場合は、当該種の生存可能個体群サイズを確保するために不可欠な生息環境を包含するのに十分な大きさを確保すべきである。 さらに、渡りの習性をもつ生物種を含む地域の場合は、繁殖地、営巣地、判明している渡りのルートが適切に保護されていることが求められる。

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Renovation Keyword:オーセンティシティ【おーせんてぃしてぃ】

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自社のホームページに載せるコンテンツとして「ストーリー」を用意することを、ぜひ検討してみてください。 ストーリーは会社沿革とは全く異なります。 例えば歴史のあるビジネスであれば、創業以来どのような理念で事業を行ってきたのか、どのような人々が、どのような思いや葛藤をいだきながらビジネスに携わってきたのかなど、読む人の心に響くようなコンテンツが、ここで言うストーリーです。 ベンチャーや創業期のビジネスでも、創業者の思いや大切にしている理念に着目することでストーリーを作成することができます。 ストーリーを発信する目的は、誠実で真摯なブランドイメージの構築をすることにあります。 これは、オーセンティシティ・マーケティングの取り組みの一つとして位置づけることができます。 オーセンティシティ・マーケティング(Authenticity Marketing)とは、オーセンティックな(Authentic:信頼できる、真実らしい、誠実な)ブランドイメージの構築を促すプロモーションを行い、競合他社よりも自社のブランドの好感度を高めるマーケティング手法です。 オーセンティシティ・マーケティングのコンセプト自体は新しいものではありません。 要するに「誠実で真面目な商売をやっています」ということをブランド力につなげましょうということですから、どちらかというと古典的な手法といえます。 ではなぜ、わざわざオーセンティシティなどと仰々しく言っているのかというと、近年のデジタルツールの普及によって、 今まさにビジネスの「誠実さ」がマーケティング的な価値を持つ状況になっているためです。 パソコンやスマートフォンが普及する前は、新聞やテレビによるマス広告が、消費者の主な情報源になっていました。 企業から消費者に向けて一方的に広告が行われており、消費者側で「その広告は過大広告ではないのか」を判断する方法は非常に限られていました。 ところが、デジタルツールが普及して、ブログやSNSによって口コミ情報が簡単に共有されるようになった現在では、事実を誇張した広告を行ってもすぐに消費者に見抜かれてしまいます。 広告の真偽を見抜く力を身につけた消費者は、誇大広告を行う企業に対して悪評を共有することでペナルティを課す一方で、誠実にビジネスを行う企業を消費者みずからが発見し、そのビジネスに関するいい評判を共有することで応援するようになりました。 このような環境下では、巨額の費用をかける必要があるマス広告よりも、自社のオーセンティシティを消費者自身に共有してもらった方が、少ない費用で大きなブランディング効果を得られる場合が出てきます。 この「消費者の力」に注目し、改めて誠実なビジネスの強みを見直そうというのが、最近オーセンティシティ・マーケティングが議論されている背景にあります。 オーセンティシティ・マーケティングを実践する際の代表的な手法が、事業や製品にまつわるストーリーを発信することです。 ストーリーは、読んだ人の共感を誘うような、人間味のある内容であることが望ましいです。 決して、上辺だけ取り繕った宣伝にならないように注意してください。 そのストーリーを広めるかどうかは消費者が決めることです。 ストーリーに偽装した宣伝など、誰も共有したがらないでしょう。 ストーリーの作成においては、創業者自身が経営を行っているベンチャーや個人事業に強みがあります。 自分自身がそのビジネスを始めるに至った経緯と、場面ごとの内心の葛藤を情熱を持って語れば、共感を呼ぶストーリーができあがる可能性が高いと言えます。 オーセンティシティ・マーケティングを行う際の注意点ですが、発信するブランドイメージが事業の等身大の姿になるように、くれぐれも注意してください。 現代の消費者は、企業が発信するメッセージのウソを見抜く力を持っています。 誇大広告は早晩ウソがばれます。 また、発信するストーリーの内容が、製品の価格帯やイメージ、広告の内容などと矛盾しないように注意する必要があります。 経営戦略が全体として整合性を持っており、発信するストーリーの内容が他の情報のどれを取ってきても一貫性を保っているということが重要です。 一貫性のないメッセージを発信してしまうと、消費者はそのストーリーが本気で語られたものではないと判断するでしょう。 ホームページを使った集客施策の一環として、事業や製品についてのストーリーを掲載することで、誠実で真面目なビジネスを行っているというブランドイメージを構築し、消費者自身に共有してもらうことが期待できます。 ストーリーの発信はオーセンティシティ・マーケティングという手法の代表例の一つです。 近年のデジタルツールの普及によってマス広告のウソを見抜く力を身につけた消費者に着目し、事業の等身大の姿を偽り無く伝えることで消費者と友好的な関係を築き、消費者自身のネットワークによって宣伝共有されることを期待するのが、オーセンティシティ・マーケティングの考え方です。 したがって、ストーリーはビジネスの本当の姿を語っている必要があります。 今後、デジタルツールやウェブはますます便利になっていき、消費者の力は増していくでしょう。 消費者を恐れたり、騙そうとしたりするのではなく、等身大の姿で協力関係を築けるか否かが集客の成否を決める傾向は、どんどん強くなっていくと考えられます。 であれば、今から「誠実な集客戦略」に取り組むべきだとは思いませんか?.

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文化遺産におけるオーセンティシティとインテグリティの本質を考える

オー センティ シティ

今は「Authenticity(オーセンティシティ)の時代」なのだそうだ。 アメリカで暮らしているとオーセンティシティという言葉をよく読んだり聞いたりする。 特にここ数年、よく耳につくようになった気がする。 オーセンティシティは、 「真実であること」 「ほんものであること」 という意味だが、人や企業などについていうときには、 「自分らしい」「飾っていない」「真摯である」「ブレていない」 という意味で使われる。 マーケティングの世界でも、企業には顧客との関係において、小手先ではないオーセンティシティが求められているのだという。 『Forbes』のオンライン版に、ジョシュ・オンさんというマーケティングの専門家が「」という記事を書いていた。 オンさんはここで、乗客引きずり下ろし事件後のユナイテッド航空の対応や、プロテストをものすごく適当なアプローチで取り上げて大炎上したペプシのCMなどを最近の失敗例として挙げ、仮にもブランディングを試みるなら、企業はその中心にオーセンティシティを持たなければ話にならない、と主張する。 (以下引用、拙訳) <オーセンティシティ(または、少なくとも見た目のオーセンティシティ)は、今やブランドにとって必須の要素となった。 オーセンティシティは、その会社が危機的状況にどのように対処するかという方法にとどまらず、そのブランドが顧客との間に持つあらゆるやり取りを下支えするものでなければならない。 ブランドは、真実のストーリーを語り、そのブランドを取り巻く環境、ブランドのビジョン、そして現在の市場での役割までを含めたスケールで、そのストーリーを捉えることを学ぶ必要がある> (引用終わり) …とオンさんは言う。 つまり、ほんとうのことを言っている、信頼できる会社だと消費者に信じてもらうためには、会社のあらゆる言動が、その会社が掲げているビジョンやストーリーに矛盾していないかどうかに自覚的でなければならない、というのだ。 これだけ「オーセンティシティ」が強調される世の中になった理由のひとつは、みんなが生活の大きな部分をインターネットに頼るようになったこともあると思う。 何もかもネットで瞬時に「知る」ことができるようになった反面、その情報のうち何がフェイクで何がホンモノなのか見分けがつきにくくなっている。 それだけに、みんな、フェイクな匂いのするものには敏感になっていて、特に若者は企業のウソや作り込みや欺瞞にはものすごく敏感に反応する。 ウソや借りものの整合性は、情報が多くなればなるほどボロが出やすい。 ほんとうの整合性はナマの真実にしかなく、小手先で繕えるものではない、ということなんだろう。 現在のアメリカは、企業も個人も「率直で信頼できる」キャラクターであることが望ましく、そうであるためには大事なことを包み隠さずに胸をはって世界にさらすのがたったひとつのただしいやり方、というのが時代の方向なのだ。 一方で、『ハーバード・ビジネス・レビュー』日本語版(2015年7月)のコラムで、INSEADのハーミニア・イバーラ教授が、このアメリカ式のオーセンティシティはあまりにも型にはまったものになっていると指摘している。 つまり、「自分らしさ」の主張がステレオタイプ化しているというのだ。 イバーラ教授は、 「自分らしさを貫くこと自体が1つのパフォーマンスとなり、右に倣えの行為となっている」 として、北米の上級幹部たちによるスピーチの典型を例に上げる。 (以下引用) <近年では個人的な話が多く盛り込まれ、かつ綿密に構成されるようになった。 冒頭ではたいてい自身のエピソードが語られる。 幹部としてのあり方を試された困難や、リーダーシップの信条の元となった試練などが模範的な例だ。 そこから「私が学んだこと」へと続き、自分らしくあることの大切さが述べられる。 ユーモアと自嘲を交えながら話すのが定石だ。 プレゼン全体のトーンは形式張らず自然体だが、内容は細部まで綿密に練られている> (引用終わり) わかる! これは、ビジネスから大学からエンターテイメントまで、どんな分野でも、アメリカの「できる人」に求められるコミュニケーションのあり方といって間違いないと思う。 「自己開示、謙遜、逆境を克服した個人的経験など」を含む、オーセンティック・リーダーシップに必要とされているひな形は「非常にアメリカ的」だと教授は指摘し、ある時北京のカンファレンスで聴いた中国人CEOによる講演がこうしたパターンとは全く違っていて、個人的なエピソードも価値観も含まれていなかったことに強い印象を受けた、と言う。 そして、オーセンティシティがリーダーの要件のひとつになるというのは、それが本来は同質化からの脱却を目指していたことを考えると、皮肉なことだと結んでいる。 なるほど。 うーん、でもオーセンティシティを求めることってほんとうに「同質化」なんだろうか? 言論統制が行われている中国で、企業の上級幹部が公の場で個人的な経験や価値観を前面に押し出さないであろうことは納得できる。 そりゃオーセンティシティとは正反対のプレゼンテーションになることだろう。 でも日本ではどうなのだろうか? 根拠はあまりないのだけど、日本の人がオーセンティシティを求める度合いは、アメリカと中国の真ん中のどこかじゃないかという気がする。 「オーセンティシティ」はとても翻訳しづらい言葉だ。 日本語には完全に同じ概念がないのだ。 「本物らしさ」「自分らしさ」だけでは足りないことが多い。 「自分らしさ」を充分に自覚して、それを体現していること、という意味を含むからだ。 とはいえ、アメリカ人が「オーセンティシティ」というときのニュアンスにいまいち統一感がない気がするな、と思っていたら、ニューヨーク・タイムズに 「 (あなたがオプラでない限り、『あなた自身であれ』というのはとんでもないアドバイスだ)」 というコラムをみつけた。 2016年6月の記事で、ペンシルバニア大学のアダム・グラントさんという心理学の教授が書いたもの。 (以下引用、拙訳) <私たちは「オーセンティシティの時代」を生きている。 人生や恋愛や仕事についてのアドバイスでは、「あなた自身でありなさい」というのが定石だ。 オーセンティシティというのは、あなたが自分の中で強く信じていることと、外側に見せる事柄の間のギャップをなくすことだ。 ヒューストン大学のブレネー・ブラウン教授が定義しているとおり、オーセンティシティとは「あなたの本当の姿を見せるという選択」なのである> (引用終わり) そして、多くの人にとって「あなた自身であれ」というのはひどいアドバイスだ、と続ける。 なぜなら、自分が抱えている本当の考えというのは、外に見せるべきものではないからだ、という。 グラント教授はさらに、A・J・ジェイコブスさんという作家による、心に浮かぶことをなんでも実行してみて「真にオーセンティックな自分になってみる実験」を例にひいて、オーセンティックとは恐ろしいものだ、というのだ。 とはいってもこのジェイコブスさんは幸い極悪人ではなく、「真にオーセンティックな」行動はわりとかわいいものだった。 知り合いの女の子に、妻がいなければデートに誘うんだけどな、と言ってみたり、親戚との会話中に「あんたの話はつまんないね」と正直に言ったり、手のひらに虫を載せている5歳の女の子に「その虫はお昼寝してるんじゃなくて死んでるんだよ」と教えてあげたり………。 そしてその実験により、ジェイコブスさんは「嘘がなければ結婚生活も世の中も成り立たない」という結論に達したのだとか。 グラント教授は、人にはセルフモニタリングが高い人と低い人がおり、高い人は常に周囲の環境を精査して、その場にふさわしい行動をしようと心がける、と語る。 低い人はより「オーセンティック」である傾向が高いといえるが、モニタリングが高い人は社会的に成功している確率が高い、とも。 そして、固まった「真の自分」がいるという頑なな思い込みは害になると警告し、「オーセンティシティ」の代わりに「誠実さ」を目指すべきだと説く。 「他の人に自分をどのように見せたいか」ということに注意を向けて、その方向に向かって変わっていこうとするほうが良い、というのが教授の主旨だ。 私はこの記事を読んで、違和感を持った。 ん? そうなん? オーセンティシティや自分らしさって「やりたい放題」とは違うんでないの?「何になりたいか」まで含めてが「自分らしさ」じゃないの? …と思ったら、やはり反論も出ていた。 グラント教授のコラムが出てすぐ3日後にハフィントンポストに掲載されたアイラ・イズラエルさんというサイコセラピストの人の記事「」。 わたしはこっちの方が納得できた。 イズラエルさんは、まず、グラントさんが定義しているのは「オーセンティシティ」ではなくて「自己一致」であり、「オーセンティシティ」は、自分が外の世界に見せているペルソナとは矛盾することもある、という。 そして面白いことに、この最近流行りの「オーセンティシティ」も、「マインドフルネス」も「コンパッション」も、みな、ここ半世紀の間に米国で広まってきた仏教哲学の流れを汲む考え方だと指摘しているのだ。 そして、心理学者は西洋式の科学の手法を適用するために実験や数量化をしようとするが、そういう実験はそもそもこのような考え方にはなじまないのだと、イズラエルさんは主張する。 ジェイコブスさんの実験も、イズラエルさんは「オーセンティシティとは何の関係もない」とばっさり。 人の頭には1日に平均5万から9万の考えが浮かぶもので、それを口に出したり実行することが「オーセンティシティ」なら、刑務所がいくつあっても足りなくなる、ともイズラエルさんは言っている。 そうなのか、米国人の心理方面の専門家の間でも「オーセンティシティ」とは何かについてこんなに意見が違うものなのか、というのがまず面白かった。 そして、こういう考え方は1950年代以降の東洋哲学の流れを汲むものだといわれてみれば、なるほど、と納得できる。 そうだった。 アメリカも半世紀前までは、「自分らしさ」を主張して良い社会ではなかったんだった。 1960年代までのアメリカは、男らしさ、女らしさ、良い父親らしさ、良い母親らしさ、良い子どもらしさ、白人らしさ、黒人らしさなどなどの縛りが世間を硬く覆っていた。 南部だけでなく北部でも非白人がいて良い場所といけない場所が法律や暗黙の了解で決められていたし、女性が就ける職業も限られていた。 マイノリティ、女性、障がいを持つ人、同性愛者など、きわめて限定された居場所を無理やりに押しつけられてきた立場の人々が半世紀以上闘い続けた結果、アメリカ人は、「オーセンティシティの時代」にやっとたどり着いたのだった。 そして、それまでの規範がもう役に立たなくなってしまったあとで、途方にくれた人々が考え方のよすがとして発見したのが仏教などの東洋哲学だった。 アメリカの東洋思想というとお手軽な東洋カブレとしてバカにされがちだけど、ビート・ジェネレーションに遡るその体験は切実なものだった。 それは連綿と受け継がれてアメリカ文化に深く根を張り、一般の人々の「自分らしさ」についての考え方にまで影響している。 それで、日本は?というと、前述したように、私の印象では日本はアメリカと中国の真ん中へんにいるような気がする。 戦時中のような、正解をはみ出すと罰せられるという言論統制はなくなった。 露骨なお仕着せも減った。 「こういう人はこう生きなければならない、こういう場ではこうでなければならない」というガチガチのキマリ社会でもなくなってきているようだ。 でも、学校や会社やエンターテイメントまで含め、あらゆる場所で「オーセンティシティ」「あなたらしさ」「自分らしさ」の発露が求められている社会でもない、のではないだろうか。 オーセンティシティを大切にする社会が人類文明の究極の形だなんていうつもりもないが、個人の幸せと自由・博愛・平等の可能性を追求していくと、結局そういうことになるんじゃないかという気がする。 日本では、まだ「場のキマリ」の引力のほうが、「自分らしさ」を求める引力よりもずっと強いように見える。 場のキマリは多方面で崩壊しつつあるようだけれど。 「自分らしくあれ」というのは、確かにひどいアドバイスかもしれない。 まず自分らしさとは何かの確認からはじめなくてはならないし、それはあんまり簡単なことではない。 ひょっとすると、グラント教授が危惧するように、固定した自分自身を表現しなくてはならないと思い込んでしまい、妙な自分探しの強迫観念の中に迷い込んでしまう人もいるかもしれない。 でも結局のところ、グラント教授のいう「なりたい人を目指そう」というのと、オーセンティックであるというのは同じことだと思う。 「なりたい人」像なり行きたい場所がはっきりと自覚できたときに、はじめて自分という整合性のあるストーリーが完成するからだ。 というか、何がしたいのか、どういう人でありたいのかという欲望を見つめること以外に「自分らしさ」に近づく方法はないと思う。 これからの日本がどんなふうにオーセンティシティに向かっていくのか、向かわないのか、回り道をするのか、それがどんなキーワードで語られていくのか、大変興味深い。 This entry was posted in by. 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