ドナウ 川 の さざ波。 『ドナウ河のさざ波』歌詞と解説(作曲:ヨシフ・イヴァノヴィチ)

ドナウ川

ドナウ 川 の さざ波

ドナウ川 延長 2,860 平均流量 6,400 流域面積 817,000 水源 () 水源の標高 678 河口・合流先 () 流域 (28. 南部の森林地帯「(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通ってに注ぐ重要なである。 河口にはが広がる。 全長は2,850 km。 川の名 [ ] 現在の名ドナウ(: ドーナウ)と各国語でそれに相当する名前は、の Danubiusダーヌビウス に由来する。 これはローマ神話のある河神の名である。 、あるいはからの借用語がもとになっていると考えられている。 ケルト神話の(Danu)、インド神話の水の女神(Danu)など、の神話にはこの語が残っている。 黒海周辺には、、、など、同様の単語から派生したと見られる川の名が多数ある。 語尾 au はで流れを意味する ouwe に由来し、ドイツ語名称に1763年以降使われている。 ドイツ語では以前は Tonach, その後は Donaw の名が使われ、現在に至る。 表記は、ドナウ川、ダニューブ川。 下流域は古代では「イストロス川」と呼ばれた。 これはケルト語の ys に由来する。 地理 [ ] ドナウの泉(ドナウエッシンゲン) ドナウ川の名称は、地方の町 でのとが合流する地点において、初めてその名が生まれる。 このドナウエッシンゲンの町を治めたのの庭に、「」と呼ばれる源泉があり、ここがドナウ川の源泉だと言われている。 彫刻などで飾られともなっているが、しかし実際はブリガッハ川に注ぐ支流であり、ここが上の源泉とは見做されない。 またドナウエッシンゲンにはもう一つの支流として「」と呼ばれる泉もあるが、こちらは現在では近郊の中にある。 この泉は無人地帯のの脇を細い流れで下った後、フュルステンベルク公城館のやを経由し、ドナウの泉が注がれるのとは反対の南側からブリガッハ川へ合流する。 ブリガッハ川の源泉は、ドナウエッシンゲンよりで2駅ほどのという町の郊外にある。 上のドナウのはであるブレク川の源泉であり、これはというの郊外にある。 この「」にはドナウ川の真の源泉である旨の説明版がある。 ブレクの泉より100mほどの場所にあるの源泉はに合流する。 ライン川はに注ぎ、ドナウ川はに注ぐので、この2つのの水が出会うことはない。 同じく近辺にはいくつかの小さなの川が流れ、その源泉が湧き出ているが、一方はライン川に注ぎ、一方はドナウ川に注ぐ。 これらの境界はヨーロッパのと呼ばれている。 フルトヴァンゲンには鉄道はないが、ドナウエッシンゲンおよび近隣の町(ドイツ最大ので有名な町。 この滝はライン川に注ぐ)などからバスが出ている。 上流 [ ] ドナウの源流は上記のとおり、の地方にあるの郊外にある。 ここから流れ出す川はと呼ばれ、南東に48km下流のドナウエッシンゲンの街で、北から流れてきたと合流し、ここからドナウの名を与えられる。 ドナウ川はここから北東に流れ続け、を抜けてやを通過し、を抜けた後、 (、)ではと接続する。 その後、でをあわせると同時に南東へと向きを変える。 その下流でから流れてきたを合わせたのち、で北からの、南からのと合流する。 パッサウの下流からは領内に入る。 を抜けた後、を起点として、30kmほどと呼ばれる景勝地が続く。 この渓谷には古城やが点在し、またオーストリア最大のの産地でもあるため、畑の中に城や僧院のたたずむ美しい光景が観光客の人気を集めており、またにも指定されている。 この渓谷を抜けるとへと入り、しばらく下流に、オーストリアの首都が存在する。 ウィーンはの居城として長くドナウ上流地域の中心であった町であり、また市民生活もドナウ川と密接に結びついていた。 「」など、ドナウを主題としてウィーンで作曲された曲も数多く存在する。 一方でウィーンはドナウ川の氾濫にも長く悩まされてきた街だが、19世紀後半の河川改修工事によってドナウ川の氾濫は抑えられた。 ドナウ川はウィーンの街を抜けて、その下流でを越える、いわゆる「」と呼ばれる狭隘部を通過する。 ここまでがドナウ川の上流部とされる。 中流 [ ] エステルゴム大聖堂 「ハンガリーの門」の名の通り、ここから下流はハンガリーに属するものと古来されてきた。 現在でも、ドナウ川はここでオーストリアから、との国境をなすようになる。 この門のすぐ下流に、スロバキアの首都が存在する。 「門」で隔てられているとはいえ、ブラチスラヴァとウィーンの距離は60kmにすぎず、オーストリア・ハンガリー帝国時代までは密接な交流があった。 またブダがオスマン帝国に占領されていた17・18世紀には、ブラチスラヴァはポジョニと呼ばれ、ハンガリーの首都となっていた。 ブラチスラヴァ下流では、かつて大規模ダムの建設計画があったものの、環境保護運動により中止となった()。 スロバキア・ハンガリー国境はで終わりをつげ、ここからはハンガリー領内に入る。 エステルゴムはハンガリー国王が戴冠した歴史ある都市であり、ドナウ河畔には町のシンボルであるが立っている。 エステルゴムのすぐ下流、と呼ばれる地域でドナウ川は東から南に流れの向きを変え、ハンガリーの中央部を縦断する。 ドナウ川が流れる各国の中でも、国土の中央部を貫流するのはハンガリーのみである。 ハンガリーにおいてドナウ川は南北をつなぐ交通の軸でもあり、また東西を分断する障壁ともなっている。 ブダペストには多くの橋が架けられているが、それを除くとハンガリー国内にドナウ川を越える橋はほとんどない。 ドナウ川を境として、ハンガリーはやや富んで小村が多く、やや都市化の進む西部と、と呼ばれる大平原が広がり、大村落が多く農業を依然中心とする東部とに二分されている。 ただ、人口分布や富においては東西に大きな差はなく、かなり均質なものとなっている。 ここではを貫流することとなり、穏やかな流れが続く。 ハンガリーの首都、は「ドナウの真珠」とも呼ばれる美しい都市であるが、かつて西岸のブダと東岸のペシュトの二つの街だったものが合併したもので、そのためドナウ川は街の中央部を流れることとなっている。 ブダとペシュトの間には、にがかけられて以降、何本かの橋が架けられているが、なかでもセーチェーニ鎖橋はその美しさでブダペストのシンボルの一つとなっている。 ハンガリー領の南端近くのドナウ沿岸にはモハーチの街があるが、ここは1526年にモハーチの戦いが起き、ハンガリーがオスマンに敗れた古戦場である。 ハンガリーを抜けると、と()の国境をなす。 ここで西から流れてきたをあわせ、で流れを再び大きく東に変えたのちにセルビア国内に入る。 ヴォイヴォディナの州都であるを通ったのち、セルビアの首都でから流れてきたを合わせる。 ハンガリーから続く平原地帯はベオグラードのやや下流で終わり、やがてセルビアとの国境となる。 ここはドナウ川がを越える地点であり、その部分には急流で知られるがある。 ここは長い間難所として知られてきたが、現在ではダムの建設によって水位が上がり、穏やかな流れとなっている。 また、鉄門ダムには3つの水力発電所が建設され、合計240万kWの電力を生み出している。 ここまでがドナウの中流域である。 下流 [ ] ドナウ・デルタ。 ドナウ川の河口であり、ここでドナウは黒海へと注ぐ 鉄門のすぐ下流にあるで、ドナウは再び平原へと流れ出て緩やかな流れとなる。 その後は下流域となり、平原をとルーマニアの国境をなしながら500kmにわたって流れていく。 ドナウ川の屈曲部、ブルガリアの西端に近いとルーマニアの ()の間には、に「 ()」が開通し、それまでで行き来していた両都市を結ぶこととなった。 この地域で最も大きな町は、南岸にあるブルガリアのである。 ルセと、対岸のルーマニアのとは「 ()」によって結ばれている。 この橋は上述の「新ヨーロッパ橋」が同区間に開通するまではブルガリアとルーマニアとを結ぶ唯一の橋だった。 ドナウ北岸のワラキア平原は、西部の、東部のとも、灌漑が広く行われ、またドナウ河岸の湿原の耕地転換が進められてきた。 ブルガリア領の北岸で、ドナウは大きく北へ流れを変えてルーマニア領内へと入る。 シリストラの対岸はルーマニアのであり、両市はフェリーで結ばれている。 この辺りから東に位置するドナウ川と黒海に挟まれた地域はと呼ばれる。 カララシからやや北東に位置する東岸ので、ドナウ-黒海運河と接続する。 チェルナヴォダは交通の要衝であり、西岸のとにカロル1世橋で結ばれて以降、ドナウ-黒海運河のほか、首都と黒海沿岸の貿易港を結ぶ道路・鉄道・水運すべてがこの町を通る。 その後、の街を通ったのち、の町で再びドナウは東に向かい、とルーマニアの国境をなす。 また現在、ブライラではドナウ川にを設ける工事が進められている。 この地域ではドナウ川は北の、中央の、南のとに分かれる。 ウクライナ・ルーマニア国境は北のキリア分流であり、ウクライナ領の北岸にはの町がある。 また、南の聖ゲオルゲ分流沿いにはルーマニア領であるの街があり、に接する場所となっていて、そこは領のの (、、、)にも接している。 この地域はと呼ばれる広大な地帯となっている。 そして、スリナ分流は沿岸の町で黒海へと注ぎ込む。 歴史 [ ] 古代 [ ] トラヤヌス橋の想像図 はからまでのドナウ川を知っており、 イストロス川と呼んだ。 もほぼ同じ地域まで進出し、 ヒステール川と呼んだ。 時代には、ほとんどから河口までの全域が、に対する帝国の北方のの役割を果たした。 、、、といった各国の首都はこの時期の最重要基地に起源を持つ。 ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンの近郊には、にローマ帝国によって築かれた、ドナウ下流初の橋梁であるの遺構が今も一部残存している。 この橋は、皇帝の時に、ドナウ北岸のへ侵攻するために建設されたもので、翌106年にダキアはローマ帝国に占領され、となった。 ドナウの両岸がローマ帝国の支配下に置かれていたのはこの ダキア(現在のルーマニア西部)のみであり、残りはドナウ川をそのまま国境としていた。 、属州ダキアは放棄され、ローマ帝国は川の南岸へと引き上げた。 ローマのダキア統治は165年間と、比較的短いものであったが、この地方はすでにローマ化されており、現在でもは民族となっている。 中世から近世 [ ] 、によって圧迫された西がドナウ川を渡り、ここにがはじまった。 これによりドナウ川はローマ帝国の北部国境としての意味を失い、ゴート族をはじめ、ゲルマン諸民族やフン族などが次々とドナウ南岸へと押し寄せた。 ローマ帝国東西分裂後は、下流はの北部国境となったものの、やがてがこの地域を奪取し、を建てた。 中流部のハンガリー平原にはやなどのが押し寄せ、そこからマジャール人によるが成立してその領域となる。 片や上流域は領となり、この地におかれた領が日ならず強大化していった。 追ってが強大化し下流域を版図に組み入れ、中流域ものによってハンガリー王国が大部分の領土を喪失すると、大部分がオスマン帝国領となった。 更に上流域のウィーンにも()と()の2度に渡って押し寄せるなど、この時期のドナウ川中下流域はオスマン帝国の重要な交通路となっていた。 近代 [ ] 第二次ウィーン包囲の失敗によるのによって中流域はオーストリアに割譲され、には大まかに上流・中流部が家のオーストリア領に、下流部がオスマン帝国領となった。 19世紀に入ると上流・中流部のオーストリア領ではの動きが強まり、1848年にはが勃発するなど体制が動揺を続けた。 またこの頃、ドイツにおいて統一の動きが高まる中、オーストリア皇帝を戴く「」か、王を戴く「」かで対立が深まり、のにより大ドイツ派のオーストリアは敗れ、最上流部はにに吸収されることとなった。 一方、から排除されたオーストリアはを強め、にはオーストリア帝国はをと結んで(二重帝国)へと改組された。 ドナウ川は二重帝国を結びつける大動脈となり、この事からその当時のを「 ドナウ帝国」と呼ぶこともある。 この時期には民族自決の動きが盛んになる中、を更に改組し諸民族が同等の権利を持つ、の構想がなされた。 また、この時期はの進展する時期であり、二重帝国内においては新しく登場した機械や技術を利用してドナウ川の開発・改修がすすめられた。 の春の洪水をきっかけにウィーン周辺で行われた河川改修工事は流路の変更を伴う大規模なものであり、10年後に完成したのちはウィーン盆地内の流路は非常に安定したものとなり、また流路の直線化によって得られた土地や水路の拡張・安定化はウィーンやオーストリア経済に多大な恩恵をもたらした。 この河川改修工事はハンガリー内においても大規模に行われ、ドナウの流れは直線的に改修され、洪水も激減した。 この河川改修により、それまで春などの増水期にはあちこちに湿原のできていたハンガリー平原は乾燥化が進み、各所に乾燥した草原が広がるようになった一方、水利の向上によって農地が拡大し、ハンガリーは農産物の一大輸出国として繁栄した。 この繁栄を受けてハンガリーの首都であるとペストも急速に成長した。 にはブダとペストの間にはじめてが架けられ、にはブダとペストが合併して市が誕生し、ハンガリーの中心として栄えた。 この時期はウィーンではが隆盛した時期であり、ワルツ王とも呼ばれるがに作曲した『』など、数々のを題材とした名曲が誕生した。 一方、下流部においてはオスマン帝国の勢力が衰える中、オスマン支配下の各民族の独立運動が盛んになっていった。 にはを公としてオスマン宗主権下のが成立した。 1829年には、に勝利したロシアがでを領有し、ドナウへと進出する足掛かりを得た。 しかし、の講和条約であるのにおいて、ロシアは南ベッサラビアおよびドナウ・デルタを失い、一時この地方から後退する。 またこの条約においてはドナウ川の国際河川化がすすめられ、各国への自由航行が保障された。 にはオスマン宗主権下のとが連合し、にが成立。 セルビア・ルーマニア両公国はのでロシア側に立ってオスマンに宣戦し、その結果によって両公国は完全独立を承認され、およびが成立。 ブルガリアもとしてオスマン宗主権下ではあるが大幅な自治を認められ、オスマン帝国はドナウ沿岸への影響力をほぼ消失した。 だが、この条約はロシアに非常に有利なものであったため各国の反発を招き、翌1878年のによって、セルビアはそのまま独立を認められたものの、ブルガリアの領土は大きく削減され、オスマンの宗主権も拡大した。 この結果はブルガリアの不満を招き、後年の台頭を呼んでバルカン半島の不安定化の一因となった。 またルーマニアも、黒海に面するの領有を認められた代わりに、ロシアに(ブジャク)地方の割譲を余儀なくされた。 ドブロジャはルーマニア人の多いこれまでの領土とはやや異質な土地であり、またドナウ南岸のおよびはブルガリアに与えられた為、この条約はルーマニアにも不満を残した。 これによりロシア帝国は再びドナウ沿岸に領土を持つこととなった。 しばらく安定していたドナウ沿岸の国境線は、のにおいて再び変化する。 この戦争においてが敗北したため、ブルガリアはおよび南ドブロジャをルーマニアに割譲した。 しかしブルガリアはこの地の奪還を悲願とし、以後30年以上、南ドブロジャはバルカン半島の火種であり続けた。 現代 [ ] によってドナウ全域は戦火へと巻き込まれ、のドイツ・オーストリア・ブルガリアと、側のロシア・セルビア・ルーマニアとの間で激しい戦闘が起きた。 結局1919年に中央同盟は敗北し、ブルガリアはによって南ドブロジャをルーマニアに割譲。 ルーマニアはソヴィエト連邦からも獲得しており、大ルーマニアが誕生した。 は解体し、旧二重帝国領のドナウ沿岸にはオーストリア共和国、、ハンガリー、の4つの新独立国が誕生した。 しかし分割されたをめぐって争いが絶えなかった上、それまで統合されていた広大な領域が分割されたためにが崩壊し、ドナウ連邦の考え方はほぼ消滅してしまった。 結局この崩壊の衝撃から立ち直ることが出来ない侭、不安定な国際情勢が続き、結局のによってオーストリアがドイツにされたのを皮切りに、沿岸諸国は次々とのに下って行くこととなった。 後、ルーマニアはベッサラビアをソヴィエト連邦に、南ドブロジャをブルガリアにした。 第二次世界大戦後には上流域の一部を除くほとんどが化し、の影響下におかれ、西側諸国の航行は困難となった。 にはにが建設され、下流域と上・中流域との航行がやっと可能になった。 終結後、によってがなくなると、ドナウ川流域の交流は再び盛んとなった。 東欧革命は沿岸諸国内の動揺を齎し、にはがユーゴスラビアから、とがソヴィエト連邦から独立し、にはによってチェコスロバキアが解体し、スロバキア共和国が成立。 現在のドナウ沿岸のが確定した。 にに繋がるが完成し、から黒海までのが可能になった。 同年にが設立されると、ドナウ川は東側諸国との国境という位置付けで重要視されることになった。 EUと東ヨーロッパにおける経済の要としてこの河川はこれからも注目されるであろうことが予想される。 だがその一方で、同河川の東岸エリアの国々においては『法の支配の尊重』という意識が低い点から「法の支配を支える機関への政治的圧力や汚職がそれを妨げている」と指摘する声が多く、特にハンガリー政府と欧州委員会はその点を巡ってこれまで何度も衝突して来ている為、今後の進展は同エリアの出方に掛かっているとも捉えられる面がある。 国際関係 [ ] ドナウ委員会加盟国: 本加盟国 オブザーバー ドナウ川は古くより諸国の重要なやの拠点として機能していたが、などいくつかのやがあり、から部まで直接ですることは近年まで不可能であった。 しかし、19世紀中盤になるとドナウ川においても化が進められ、のに於いてが設立されて、河口からまでを国際管理下に置くと共に、各国への自由航行が保障された。 第一次世界大戦後には新たにが設立され、航行の上限であるドイツのウルムにまで管理区域が拡大されたが、第二次世界大戦後、にはの指導下の元、が諸国間で締結された。 この条約によってルーマニアのに ()が設立され、ドナウ川の航行を担当したが、当時の同委員会の加盟国はソ連・ルーマニア・・ブルガリア・・ハンガリーで、東側諸国のみの参加だった。 この頃には西側に属したウィーンと東側に属したその域とのもほとんどなくなっていた。 のちにドナウ委員会にはオーストリアが正加盟国として、がとして参加し、本部もにはハンガリーのへと移転したが、ドナウ川航行が東側優位のもとにあったことに違いはなかった。 終結後もドナウ川委員会は存続し、ドナウ川航行の調整を行っているが、ドナウ川沿岸国以外も多数の国がオブザーバーとして参加している。 ドナウ委員会加盟国はから、本加盟国がドイツ・オーストリア・スロバキア・ハンガリー・クロアチア・セルビア・ルーマニア・ブルガリア・モルドバ・ウクライナの沿岸10ヶ国とを合わせた計11ヶ国であり、オブザーバーは・・・・・・・・・の10ヶ国である。 開発 [ ] 、政府と政府はドナウ川の開発条約を締結し、ハンガリーののすぐ上流にあると、ハンガリーとチェコスロバキアの国境上にあるの2か所にをし、や水量調整による防止および安定航行の実現をめざした。 にはハンガリーが財政上の理由で4年間延期を申し入れた為、着工はとなった。 しかし、この頃からハンガリーではや部のを理由としてダム建設が起こり、にはによってしたハンガリー新政府が計画を中止した。 対立はさらに激化し、にはハンガリーは条約自体を破棄。 チェコスロバキアから権利を継承したはこれを非難し、両国の対立は頂点に達した。 その後、の仲裁によってこの問題はにあるへと提訴され、、同裁判所は条約を一方的に破棄したハンガリーとダム建設を強行しを破壊したスロバキア双方に問題があるとして両国に罰金を命じた。 このは、国際司法裁判所がの紛争に対して判決を下した世界初のケースであった。 世界遺産 [ ] ドナウ川沿岸には、オーストリアの(文化遺産)、ハンガリーの(文化遺産)、ブルガリアの(自然遺産)、ルーマニアの(自然遺産)の4つのが存在する。 ドナウ川を題材にした作品 [ ] 音楽 [ ]• :歌曲『ドナウ川の上で』(D553)• :バレエ『』• ():『ライン川からドナウ川へ』(作品138)• :ワルツ『ドナウ川の歌』(作品127)• :『ドナウ川の花』(Donau Blumen)• :ワルツ『 』(作品314)• ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ『ドナウの岸辺から』(作品356)• ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ『 ()』(作品427)• :バレエ『』• :ワルツ『ドナウ川の物語』(作品446)• :ワルツ『 』• :ワルツ『ドナウ伝説(ドナウの歌)』(作品233)• :ワルツ『ドナウ川の物語』(作品99)• :交響詩『ドナウ』• :交響詩『』• :ワルツ『ドナウ川の夢』 文学 [ ]• :『』() 脚注 [ ] []• 「ベラン世界地理体系8 ロシア・中央アジア」p78-79 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2011年6月20日初版第1刷• 「ベラン世界地理体系8 ロシア・中央アジア」p173 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2011年6月20日初版第1刷• 日刊建設工業新聞社 2018年1月17日• 2018年1月17日• 2018年1月23日• DIGIMA NEWS 2018年2月8日• 「ドナウ河紀行」p204 加藤雅彦 1991年10月21日 岩波新書• 「ウィーン ブルジョアの時代から世紀末へ」p121-122 山之内克子 講談社現代新書 1995年11月20日第1刷• 2017年5月29日• 「ドナウ河紀行」p126 加藤雅彦 1991年10月21日 岩波新書• ドナウ委員会公式サイト 2014年12月7日閲覧• 「地球の水が危ない」pp90-94 高橋裕 岩波書店 2003年2月20日第1刷• 国際流域での水の分配をめぐる係争と協調 - 中山幹康 東京地学協会 2012年12月31日閲覧• 関連項目 [ ]• (、、、) 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 ドナウ川に関連する および があります。 参考地図:•

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ドナウ川 延長 2,860 平均流量 6,400 流域面積 817,000 水源 () 水源の標高 678 河口・合流先 () 流域 (28. 南部の森林地帯「(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通ってに注ぐ重要なである。 河口にはが広がる。 全長は2,850 km。 川の名 [ ] 現在の名ドナウ(: ドーナウ)と各国語でそれに相当する名前は、の Danubiusダーヌビウス に由来する。 これはローマ神話のある河神の名である。 、あるいはからの借用語がもとになっていると考えられている。 ケルト神話の(Danu)、インド神話の水の女神(Danu)など、の神話にはこの語が残っている。 黒海周辺には、、、など、同様の単語から派生したと見られる川の名が多数ある。 語尾 au はで流れを意味する ouwe に由来し、ドイツ語名称に1763年以降使われている。 ドイツ語では以前は Tonach, その後は Donaw の名が使われ、現在に至る。 表記は、ドナウ川、ダニューブ川。 下流域は古代では「イストロス川」と呼ばれた。 これはケルト語の ys に由来する。 地理 [ ] ドナウの泉(ドナウエッシンゲン) ドナウ川の名称は、地方の町 でのとが合流する地点において、初めてその名が生まれる。 このドナウエッシンゲンの町を治めたのの庭に、「」と呼ばれる源泉があり、ここがドナウ川の源泉だと言われている。 彫刻などで飾られともなっているが、しかし実際はブリガッハ川に注ぐ支流であり、ここが上の源泉とは見做されない。 またドナウエッシンゲンにはもう一つの支流として「」と呼ばれる泉もあるが、こちらは現在では近郊の中にある。 この泉は無人地帯のの脇を細い流れで下った後、フュルステンベルク公城館のやを経由し、ドナウの泉が注がれるのとは反対の南側からブリガッハ川へ合流する。 ブリガッハ川の源泉は、ドナウエッシンゲンよりで2駅ほどのという町の郊外にある。 上のドナウのはであるブレク川の源泉であり、これはというの郊外にある。 この「」にはドナウ川の真の源泉である旨の説明版がある。 ブレクの泉より100mほどの場所にあるの源泉はに合流する。 ライン川はに注ぎ、ドナウ川はに注ぐので、この2つのの水が出会うことはない。 同じく近辺にはいくつかの小さなの川が流れ、その源泉が湧き出ているが、一方はライン川に注ぎ、一方はドナウ川に注ぐ。 これらの境界はヨーロッパのと呼ばれている。 フルトヴァンゲンには鉄道はないが、ドナウエッシンゲンおよび近隣の町(ドイツ最大ので有名な町。 この滝はライン川に注ぐ)などからバスが出ている。 上流 [ ] ドナウの源流は上記のとおり、の地方にあるの郊外にある。 ここから流れ出す川はと呼ばれ、南東に48km下流のドナウエッシンゲンの街で、北から流れてきたと合流し、ここからドナウの名を与えられる。 ドナウ川はここから北東に流れ続け、を抜けてやを通過し、を抜けた後、 (、)ではと接続する。 その後、でをあわせると同時に南東へと向きを変える。 その下流でから流れてきたを合わせたのち、で北からの、南からのと合流する。 パッサウの下流からは領内に入る。 を抜けた後、を起点として、30kmほどと呼ばれる景勝地が続く。 この渓谷には古城やが点在し、またオーストリア最大のの産地でもあるため、畑の中に城や僧院のたたずむ美しい光景が観光客の人気を集めており、またにも指定されている。 この渓谷を抜けるとへと入り、しばらく下流に、オーストリアの首都が存在する。 ウィーンはの居城として長くドナウ上流地域の中心であった町であり、また市民生活もドナウ川と密接に結びついていた。 「」など、ドナウを主題としてウィーンで作曲された曲も数多く存在する。 一方でウィーンはドナウ川の氾濫にも長く悩まされてきた街だが、19世紀後半の河川改修工事によってドナウ川の氾濫は抑えられた。 ドナウ川はウィーンの街を抜けて、その下流でを越える、いわゆる「」と呼ばれる狭隘部を通過する。 ここまでがドナウ川の上流部とされる。 中流 [ ] エステルゴム大聖堂 「ハンガリーの門」の名の通り、ここから下流はハンガリーに属するものと古来されてきた。 現在でも、ドナウ川はここでオーストリアから、との国境をなすようになる。 この門のすぐ下流に、スロバキアの首都が存在する。 「門」で隔てられているとはいえ、ブラチスラヴァとウィーンの距離は60kmにすぎず、オーストリア・ハンガリー帝国時代までは密接な交流があった。 またブダがオスマン帝国に占領されていた17・18世紀には、ブラチスラヴァはポジョニと呼ばれ、ハンガリーの首都となっていた。 ブラチスラヴァ下流では、かつて大規模ダムの建設計画があったものの、環境保護運動により中止となった()。 スロバキア・ハンガリー国境はで終わりをつげ、ここからはハンガリー領内に入る。 エステルゴムはハンガリー国王が戴冠した歴史ある都市であり、ドナウ河畔には町のシンボルであるが立っている。 エステルゴムのすぐ下流、と呼ばれる地域でドナウ川は東から南に流れの向きを変え、ハンガリーの中央部を縦断する。 ドナウ川が流れる各国の中でも、国土の中央部を貫流するのはハンガリーのみである。 ハンガリーにおいてドナウ川は南北をつなぐ交通の軸でもあり、また東西を分断する障壁ともなっている。 ブダペストには多くの橋が架けられているが、それを除くとハンガリー国内にドナウ川を越える橋はほとんどない。 ドナウ川を境として、ハンガリーはやや富んで小村が多く、やや都市化の進む西部と、と呼ばれる大平原が広がり、大村落が多く農業を依然中心とする東部とに二分されている。 ただ、人口分布や富においては東西に大きな差はなく、かなり均質なものとなっている。 ここではを貫流することとなり、穏やかな流れが続く。 ハンガリーの首都、は「ドナウの真珠」とも呼ばれる美しい都市であるが、かつて西岸のブダと東岸のペシュトの二つの街だったものが合併したもので、そのためドナウ川は街の中央部を流れることとなっている。 ブダとペシュトの間には、にがかけられて以降、何本かの橋が架けられているが、なかでもセーチェーニ鎖橋はその美しさでブダペストのシンボルの一つとなっている。 ハンガリー領の南端近くのドナウ沿岸にはモハーチの街があるが、ここは1526年にモハーチの戦いが起き、ハンガリーがオスマンに敗れた古戦場である。 ハンガリーを抜けると、と()の国境をなす。 ここで西から流れてきたをあわせ、で流れを再び大きく東に変えたのちにセルビア国内に入る。 ヴォイヴォディナの州都であるを通ったのち、セルビアの首都でから流れてきたを合わせる。 ハンガリーから続く平原地帯はベオグラードのやや下流で終わり、やがてセルビアとの国境となる。 ここはドナウ川がを越える地点であり、その部分には急流で知られるがある。 ここは長い間難所として知られてきたが、現在ではダムの建設によって水位が上がり、穏やかな流れとなっている。 また、鉄門ダムには3つの水力発電所が建設され、合計240万kWの電力を生み出している。 ここまでがドナウの中流域である。 下流 [ ] ドナウ・デルタ。 ドナウ川の河口であり、ここでドナウは黒海へと注ぐ 鉄門のすぐ下流にあるで、ドナウは再び平原へと流れ出て緩やかな流れとなる。 その後は下流域となり、平原をとルーマニアの国境をなしながら500kmにわたって流れていく。 ドナウ川の屈曲部、ブルガリアの西端に近いとルーマニアの ()の間には、に「 ()」が開通し、それまでで行き来していた両都市を結ぶこととなった。 この地域で最も大きな町は、南岸にあるブルガリアのである。 ルセと、対岸のルーマニアのとは「 ()」によって結ばれている。 この橋は上述の「新ヨーロッパ橋」が同区間に開通するまではブルガリアとルーマニアとを結ぶ唯一の橋だった。 ドナウ北岸のワラキア平原は、西部の、東部のとも、灌漑が広く行われ、またドナウ河岸の湿原の耕地転換が進められてきた。 ブルガリア領の北岸で、ドナウは大きく北へ流れを変えてルーマニア領内へと入る。 シリストラの対岸はルーマニアのであり、両市はフェリーで結ばれている。 この辺りから東に位置するドナウ川と黒海に挟まれた地域はと呼ばれる。 カララシからやや北東に位置する東岸ので、ドナウ-黒海運河と接続する。 チェルナヴォダは交通の要衝であり、西岸のとにカロル1世橋で結ばれて以降、ドナウ-黒海運河のほか、首都と黒海沿岸の貿易港を結ぶ道路・鉄道・水運すべてがこの町を通る。 その後、の街を通ったのち、の町で再びドナウは東に向かい、とルーマニアの国境をなす。 また現在、ブライラではドナウ川にを設ける工事が進められている。 この地域ではドナウ川は北の、中央の、南のとに分かれる。 ウクライナ・ルーマニア国境は北のキリア分流であり、ウクライナ領の北岸にはの町がある。 また、南の聖ゲオルゲ分流沿いにはルーマニア領であるの街があり、に接する場所となっていて、そこは領のの (、、、)にも接している。 この地域はと呼ばれる広大な地帯となっている。 そして、スリナ分流は沿岸の町で黒海へと注ぎ込む。 歴史 [ ] 古代 [ ] トラヤヌス橋の想像図 はからまでのドナウ川を知っており、 イストロス川と呼んだ。 もほぼ同じ地域まで進出し、 ヒステール川と呼んだ。 時代には、ほとんどから河口までの全域が、に対する帝国の北方のの役割を果たした。 、、、といった各国の首都はこの時期の最重要基地に起源を持つ。 ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンの近郊には、にローマ帝国によって築かれた、ドナウ下流初の橋梁であるの遺構が今も一部残存している。 この橋は、皇帝の時に、ドナウ北岸のへ侵攻するために建設されたもので、翌106年にダキアはローマ帝国に占領され、となった。 ドナウの両岸がローマ帝国の支配下に置かれていたのはこの ダキア(現在のルーマニア西部)のみであり、残りはドナウ川をそのまま国境としていた。 、属州ダキアは放棄され、ローマ帝国は川の南岸へと引き上げた。 ローマのダキア統治は165年間と、比較的短いものであったが、この地方はすでにローマ化されており、現在でもは民族となっている。 中世から近世 [ ] 、によって圧迫された西がドナウ川を渡り、ここにがはじまった。 これによりドナウ川はローマ帝国の北部国境としての意味を失い、ゴート族をはじめ、ゲルマン諸民族やフン族などが次々とドナウ南岸へと押し寄せた。 ローマ帝国東西分裂後は、下流はの北部国境となったものの、やがてがこの地域を奪取し、を建てた。 中流部のハンガリー平原にはやなどのが押し寄せ、そこからマジャール人によるが成立してその領域となる。 片や上流域は領となり、この地におかれた領が日ならず強大化していった。 追ってが強大化し下流域を版図に組み入れ、中流域ものによってハンガリー王国が大部分の領土を喪失すると、大部分がオスマン帝国領となった。 更に上流域のウィーンにも()と()の2度に渡って押し寄せるなど、この時期のドナウ川中下流域はオスマン帝国の重要な交通路となっていた。 近代 [ ] 第二次ウィーン包囲の失敗によるのによって中流域はオーストリアに割譲され、には大まかに上流・中流部が家のオーストリア領に、下流部がオスマン帝国領となった。 19世紀に入ると上流・中流部のオーストリア領ではの動きが強まり、1848年にはが勃発するなど体制が動揺を続けた。 またこの頃、ドイツにおいて統一の動きが高まる中、オーストリア皇帝を戴く「」か、王を戴く「」かで対立が深まり、のにより大ドイツ派のオーストリアは敗れ、最上流部はにに吸収されることとなった。 一方、から排除されたオーストリアはを強め、にはオーストリア帝国はをと結んで(二重帝国)へと改組された。 ドナウ川は二重帝国を結びつける大動脈となり、この事からその当時のを「 ドナウ帝国」と呼ぶこともある。 この時期には民族自決の動きが盛んになる中、を更に改組し諸民族が同等の権利を持つ、の構想がなされた。 また、この時期はの進展する時期であり、二重帝国内においては新しく登場した機械や技術を利用してドナウ川の開発・改修がすすめられた。 の春の洪水をきっかけにウィーン周辺で行われた河川改修工事は流路の変更を伴う大規模なものであり、10年後に完成したのちはウィーン盆地内の流路は非常に安定したものとなり、また流路の直線化によって得られた土地や水路の拡張・安定化はウィーンやオーストリア経済に多大な恩恵をもたらした。 この河川改修工事はハンガリー内においても大規模に行われ、ドナウの流れは直線的に改修され、洪水も激減した。 この河川改修により、それまで春などの増水期にはあちこちに湿原のできていたハンガリー平原は乾燥化が進み、各所に乾燥した草原が広がるようになった一方、水利の向上によって農地が拡大し、ハンガリーは農産物の一大輸出国として繁栄した。 この繁栄を受けてハンガリーの首都であるとペストも急速に成長した。 にはブダとペストの間にはじめてが架けられ、にはブダとペストが合併して市が誕生し、ハンガリーの中心として栄えた。 この時期はウィーンではが隆盛した時期であり、ワルツ王とも呼ばれるがに作曲した『』など、数々のを題材とした名曲が誕生した。 一方、下流部においてはオスマン帝国の勢力が衰える中、オスマン支配下の各民族の独立運動が盛んになっていった。 にはを公としてオスマン宗主権下のが成立した。 1829年には、に勝利したロシアがでを領有し、ドナウへと進出する足掛かりを得た。 しかし、の講和条約であるのにおいて、ロシアは南ベッサラビアおよびドナウ・デルタを失い、一時この地方から後退する。 またこの条約においてはドナウ川の国際河川化がすすめられ、各国への自由航行が保障された。 にはオスマン宗主権下のとが連合し、にが成立。 セルビア・ルーマニア両公国はのでロシア側に立ってオスマンに宣戦し、その結果によって両公国は完全独立を承認され、およびが成立。 ブルガリアもとしてオスマン宗主権下ではあるが大幅な自治を認められ、オスマン帝国はドナウ沿岸への影響力をほぼ消失した。 だが、この条約はロシアに非常に有利なものであったため各国の反発を招き、翌1878年のによって、セルビアはそのまま独立を認められたものの、ブルガリアの領土は大きく削減され、オスマンの宗主権も拡大した。 この結果はブルガリアの不満を招き、後年の台頭を呼んでバルカン半島の不安定化の一因となった。 またルーマニアも、黒海に面するの領有を認められた代わりに、ロシアに(ブジャク)地方の割譲を余儀なくされた。 ドブロジャはルーマニア人の多いこれまでの領土とはやや異質な土地であり、またドナウ南岸のおよびはブルガリアに与えられた為、この条約はルーマニアにも不満を残した。 これによりロシア帝国は再びドナウ沿岸に領土を持つこととなった。 しばらく安定していたドナウ沿岸の国境線は、のにおいて再び変化する。 この戦争においてが敗北したため、ブルガリアはおよび南ドブロジャをルーマニアに割譲した。 しかしブルガリアはこの地の奪還を悲願とし、以後30年以上、南ドブロジャはバルカン半島の火種であり続けた。 現代 [ ] によってドナウ全域は戦火へと巻き込まれ、のドイツ・オーストリア・ブルガリアと、側のロシア・セルビア・ルーマニアとの間で激しい戦闘が起きた。 結局1919年に中央同盟は敗北し、ブルガリアはによって南ドブロジャをルーマニアに割譲。 ルーマニアはソヴィエト連邦からも獲得しており、大ルーマニアが誕生した。 は解体し、旧二重帝国領のドナウ沿岸にはオーストリア共和国、、ハンガリー、の4つの新独立国が誕生した。 しかし分割されたをめぐって争いが絶えなかった上、それまで統合されていた広大な領域が分割されたためにが崩壊し、ドナウ連邦の考え方はほぼ消滅してしまった。 結局この崩壊の衝撃から立ち直ることが出来ない侭、不安定な国際情勢が続き、結局のによってオーストリアがドイツにされたのを皮切りに、沿岸諸国は次々とのに下って行くこととなった。 後、ルーマニアはベッサラビアをソヴィエト連邦に、南ドブロジャをブルガリアにした。 第二次世界大戦後には上流域の一部を除くほとんどが化し、の影響下におかれ、西側諸国の航行は困難となった。 にはにが建設され、下流域と上・中流域との航行がやっと可能になった。 終結後、によってがなくなると、ドナウ川流域の交流は再び盛んとなった。 東欧革命は沿岸諸国内の動揺を齎し、にはがユーゴスラビアから、とがソヴィエト連邦から独立し、にはによってチェコスロバキアが解体し、スロバキア共和国が成立。 現在のドナウ沿岸のが確定した。 にに繋がるが完成し、から黒海までのが可能になった。 同年にが設立されると、ドナウ川は東側諸国との国境という位置付けで重要視されることになった。 EUと東ヨーロッパにおける経済の要としてこの河川はこれからも注目されるであろうことが予想される。 だがその一方で、同河川の東岸エリアの国々においては『法の支配の尊重』という意識が低い点から「法の支配を支える機関への政治的圧力や汚職がそれを妨げている」と指摘する声が多く、特にハンガリー政府と欧州委員会はその点を巡ってこれまで何度も衝突して来ている為、今後の進展は同エリアの出方に掛かっているとも捉えられる面がある。 国際関係 [ ] ドナウ委員会加盟国: 本加盟国 オブザーバー ドナウ川は古くより諸国の重要なやの拠点として機能していたが、などいくつかのやがあり、から部まで直接ですることは近年まで不可能であった。 しかし、19世紀中盤になるとドナウ川においても化が進められ、のに於いてが設立されて、河口からまでを国際管理下に置くと共に、各国への自由航行が保障された。 第一次世界大戦後には新たにが設立され、航行の上限であるドイツのウルムにまで管理区域が拡大されたが、第二次世界大戦後、にはの指導下の元、が諸国間で締結された。 この条約によってルーマニアのに ()が設立され、ドナウ川の航行を担当したが、当時の同委員会の加盟国はソ連・ルーマニア・・ブルガリア・・ハンガリーで、東側諸国のみの参加だった。 この頃には西側に属したウィーンと東側に属したその域とのもほとんどなくなっていた。 のちにドナウ委員会にはオーストリアが正加盟国として、がとして参加し、本部もにはハンガリーのへと移転したが、ドナウ川航行が東側優位のもとにあったことに違いはなかった。 終結後もドナウ川委員会は存続し、ドナウ川航行の調整を行っているが、ドナウ川沿岸国以外も多数の国がオブザーバーとして参加している。 ドナウ委員会加盟国はから、本加盟国がドイツ・オーストリア・スロバキア・ハンガリー・クロアチア・セルビア・ルーマニア・ブルガリア・モルドバ・ウクライナの沿岸10ヶ国とを合わせた計11ヶ国であり、オブザーバーは・・・・・・・・・の10ヶ国である。 開発 [ ] 、政府と政府はドナウ川の開発条約を締結し、ハンガリーののすぐ上流にあると、ハンガリーとチェコスロバキアの国境上にあるの2か所にをし、や水量調整による防止および安定航行の実現をめざした。 にはハンガリーが財政上の理由で4年間延期を申し入れた為、着工はとなった。 しかし、この頃からハンガリーではや部のを理由としてダム建設が起こり、にはによってしたハンガリー新政府が計画を中止した。 対立はさらに激化し、にはハンガリーは条約自体を破棄。 チェコスロバキアから権利を継承したはこれを非難し、両国の対立は頂点に達した。 その後、の仲裁によってこの問題はにあるへと提訴され、、同裁判所は条約を一方的に破棄したハンガリーとダム建設を強行しを破壊したスロバキア双方に問題があるとして両国に罰金を命じた。 このは、国際司法裁判所がの紛争に対して判決を下した世界初のケースであった。 世界遺産 [ ] ドナウ川沿岸には、オーストリアの(文化遺産)、ハンガリーの(文化遺産)、ブルガリアの(自然遺産)、ルーマニアの(自然遺産)の4つのが存在する。 ドナウ川を題材にした作品 [ ] 音楽 [ ]• :歌曲『ドナウ川の上で』(D553)• :バレエ『』• ():『ライン川からドナウ川へ』(作品138)• :ワルツ『ドナウ川の歌』(作品127)• :『ドナウ川の花』(Donau Blumen)• :ワルツ『 』(作品314)• ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ『ドナウの岸辺から』(作品356)• ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ『 ()』(作品427)• :バレエ『』• :ワルツ『ドナウ川の物語』(作品446)• :ワルツ『 』• :ワルツ『ドナウ伝説(ドナウの歌)』(作品233)• :ワルツ『ドナウ川の物語』(作品99)• :交響詩『ドナウ』• :交響詩『』• :ワルツ『ドナウ川の夢』 文学 [ ]• :『』() 脚注 [ ] []• 「ベラン世界地理体系8 ロシア・中央アジア」p78-79 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2011年6月20日初版第1刷• 「ベラン世界地理体系8 ロシア・中央アジア」p173 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2011年6月20日初版第1刷• 日刊建設工業新聞社 2018年1月17日• 2018年1月17日• 2018年1月23日• DIGIMA NEWS 2018年2月8日• 「ドナウ河紀行」p204 加藤雅彦 1991年10月21日 岩波新書• 「ウィーン ブルジョアの時代から世紀末へ」p121-122 山之内克子 講談社現代新書 1995年11月20日第1刷• 2017年5月29日• 「ドナウ河紀行」p126 加藤雅彦 1991年10月21日 岩波新書• ドナウ委員会公式サイト 2014年12月7日閲覧• 「地球の水が危ない」pp90-94 高橋裕 岩波書店 2003年2月20日第1刷• 国際流域での水の分配をめぐる係争と協調 - 中山幹康 東京地学協会 2012年12月31日閲覧• 関連項目 [ ]• (、、、) 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 ドナウ川に関連する および があります。 参考地図:•

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『ドナウ河のさざ波』歌詞と解説(作曲:ヨシフ・イヴァノヴィチ)

ドナウ 川 の さざ波

ドナウ川 延長 2,860 平均流量 6,400 流域面積 817,000 水源 () 水源の標高 678 河口・合流先 () 流域 (28. 南部の森林地帯「(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通ってに注ぐ重要なである。 河口にはが広がる。 全長は2,850 km。 川の名 [ ] 現在の名ドナウ(: ドーナウ)と各国語でそれに相当する名前は、の Danubiusダーヌビウス に由来する。 これはローマ神話のある河神の名である。 、あるいはからの借用語がもとになっていると考えられている。 ケルト神話の(Danu)、インド神話の水の女神(Danu)など、の神話にはこの語が残っている。 黒海周辺には、、、など、同様の単語から派生したと見られる川の名が多数ある。 語尾 au はで流れを意味する ouwe に由来し、ドイツ語名称に1763年以降使われている。 ドイツ語では以前は Tonach, その後は Donaw の名が使われ、現在に至る。 表記は、ドナウ川、ダニューブ川。 下流域は古代では「イストロス川」と呼ばれた。 これはケルト語の ys に由来する。 地理 [ ] ドナウの泉(ドナウエッシンゲン) ドナウ川の名称は、地方の町 でのとが合流する地点において、初めてその名が生まれる。 このドナウエッシンゲンの町を治めたのの庭に、「」と呼ばれる源泉があり、ここがドナウ川の源泉だと言われている。 彫刻などで飾られともなっているが、しかし実際はブリガッハ川に注ぐ支流であり、ここが上の源泉とは見做されない。 またドナウエッシンゲンにはもう一つの支流として「」と呼ばれる泉もあるが、こちらは現在では近郊の中にある。 この泉は無人地帯のの脇を細い流れで下った後、フュルステンベルク公城館のやを経由し、ドナウの泉が注がれるのとは反対の南側からブリガッハ川へ合流する。 ブリガッハ川の源泉は、ドナウエッシンゲンよりで2駅ほどのという町の郊外にある。 上のドナウのはであるブレク川の源泉であり、これはというの郊外にある。 この「」にはドナウ川の真の源泉である旨の説明版がある。 ブレクの泉より100mほどの場所にあるの源泉はに合流する。 ライン川はに注ぎ、ドナウ川はに注ぐので、この2つのの水が出会うことはない。 同じく近辺にはいくつかの小さなの川が流れ、その源泉が湧き出ているが、一方はライン川に注ぎ、一方はドナウ川に注ぐ。 これらの境界はヨーロッパのと呼ばれている。 フルトヴァンゲンには鉄道はないが、ドナウエッシンゲンおよび近隣の町(ドイツ最大ので有名な町。 この滝はライン川に注ぐ)などからバスが出ている。 上流 [ ] ドナウの源流は上記のとおり、の地方にあるの郊外にある。 ここから流れ出す川はと呼ばれ、南東に48km下流のドナウエッシンゲンの街で、北から流れてきたと合流し、ここからドナウの名を与えられる。 ドナウ川はここから北東に流れ続け、を抜けてやを通過し、を抜けた後、 (、)ではと接続する。 その後、でをあわせると同時に南東へと向きを変える。 その下流でから流れてきたを合わせたのち、で北からの、南からのと合流する。 パッサウの下流からは領内に入る。 を抜けた後、を起点として、30kmほどと呼ばれる景勝地が続く。 この渓谷には古城やが点在し、またオーストリア最大のの産地でもあるため、畑の中に城や僧院のたたずむ美しい光景が観光客の人気を集めており、またにも指定されている。 この渓谷を抜けるとへと入り、しばらく下流に、オーストリアの首都が存在する。 ウィーンはの居城として長くドナウ上流地域の中心であった町であり、また市民生活もドナウ川と密接に結びついていた。 「」など、ドナウを主題としてウィーンで作曲された曲も数多く存在する。 一方でウィーンはドナウ川の氾濫にも長く悩まされてきた街だが、19世紀後半の河川改修工事によってドナウ川の氾濫は抑えられた。 ドナウ川はウィーンの街を抜けて、その下流でを越える、いわゆる「」と呼ばれる狭隘部を通過する。 ここまでがドナウ川の上流部とされる。 中流 [ ] エステルゴム大聖堂 「ハンガリーの門」の名の通り、ここから下流はハンガリーに属するものと古来されてきた。 現在でも、ドナウ川はここでオーストリアから、との国境をなすようになる。 この門のすぐ下流に、スロバキアの首都が存在する。 「門」で隔てられているとはいえ、ブラチスラヴァとウィーンの距離は60kmにすぎず、オーストリア・ハンガリー帝国時代までは密接な交流があった。 またブダがオスマン帝国に占領されていた17・18世紀には、ブラチスラヴァはポジョニと呼ばれ、ハンガリーの首都となっていた。 ブラチスラヴァ下流では、かつて大規模ダムの建設計画があったものの、環境保護運動により中止となった()。 スロバキア・ハンガリー国境はで終わりをつげ、ここからはハンガリー領内に入る。 エステルゴムはハンガリー国王が戴冠した歴史ある都市であり、ドナウ河畔には町のシンボルであるが立っている。 エステルゴムのすぐ下流、と呼ばれる地域でドナウ川は東から南に流れの向きを変え、ハンガリーの中央部を縦断する。 ドナウ川が流れる各国の中でも、国土の中央部を貫流するのはハンガリーのみである。 ハンガリーにおいてドナウ川は南北をつなぐ交通の軸でもあり、また東西を分断する障壁ともなっている。 ブダペストには多くの橋が架けられているが、それを除くとハンガリー国内にドナウ川を越える橋はほとんどない。 ドナウ川を境として、ハンガリーはやや富んで小村が多く、やや都市化の進む西部と、と呼ばれる大平原が広がり、大村落が多く農業を依然中心とする東部とに二分されている。 ただ、人口分布や富においては東西に大きな差はなく、かなり均質なものとなっている。 ここではを貫流することとなり、穏やかな流れが続く。 ハンガリーの首都、は「ドナウの真珠」とも呼ばれる美しい都市であるが、かつて西岸のブダと東岸のペシュトの二つの街だったものが合併したもので、そのためドナウ川は街の中央部を流れることとなっている。 ブダとペシュトの間には、にがかけられて以降、何本かの橋が架けられているが、なかでもセーチェーニ鎖橋はその美しさでブダペストのシンボルの一つとなっている。 ハンガリー領の南端近くのドナウ沿岸にはモハーチの街があるが、ここは1526年にモハーチの戦いが起き、ハンガリーがオスマンに敗れた古戦場である。 ハンガリーを抜けると、と()の国境をなす。 ここで西から流れてきたをあわせ、で流れを再び大きく東に変えたのちにセルビア国内に入る。 ヴォイヴォディナの州都であるを通ったのち、セルビアの首都でから流れてきたを合わせる。 ハンガリーから続く平原地帯はベオグラードのやや下流で終わり、やがてセルビアとの国境となる。 ここはドナウ川がを越える地点であり、その部分には急流で知られるがある。 ここは長い間難所として知られてきたが、現在ではダムの建設によって水位が上がり、穏やかな流れとなっている。 また、鉄門ダムには3つの水力発電所が建設され、合計240万kWの電力を生み出している。 ここまでがドナウの中流域である。 下流 [ ] ドナウ・デルタ。 ドナウ川の河口であり、ここでドナウは黒海へと注ぐ 鉄門のすぐ下流にあるで、ドナウは再び平原へと流れ出て緩やかな流れとなる。 その後は下流域となり、平原をとルーマニアの国境をなしながら500kmにわたって流れていく。 ドナウ川の屈曲部、ブルガリアの西端に近いとルーマニアの ()の間には、に「 ()」が開通し、それまでで行き来していた両都市を結ぶこととなった。 この地域で最も大きな町は、南岸にあるブルガリアのである。 ルセと、対岸のルーマニアのとは「 ()」によって結ばれている。 この橋は上述の「新ヨーロッパ橋」が同区間に開通するまではブルガリアとルーマニアとを結ぶ唯一の橋だった。 ドナウ北岸のワラキア平原は、西部の、東部のとも、灌漑が広く行われ、またドナウ河岸の湿原の耕地転換が進められてきた。 ブルガリア領の北岸で、ドナウは大きく北へ流れを変えてルーマニア領内へと入る。 シリストラの対岸はルーマニアのであり、両市はフェリーで結ばれている。 この辺りから東に位置するドナウ川と黒海に挟まれた地域はと呼ばれる。 カララシからやや北東に位置する東岸ので、ドナウ-黒海運河と接続する。 チェルナヴォダは交通の要衝であり、西岸のとにカロル1世橋で結ばれて以降、ドナウ-黒海運河のほか、首都と黒海沿岸の貿易港を結ぶ道路・鉄道・水運すべてがこの町を通る。 その後、の街を通ったのち、の町で再びドナウは東に向かい、とルーマニアの国境をなす。 また現在、ブライラではドナウ川にを設ける工事が進められている。 この地域ではドナウ川は北の、中央の、南のとに分かれる。 ウクライナ・ルーマニア国境は北のキリア分流であり、ウクライナ領の北岸にはの町がある。 また、南の聖ゲオルゲ分流沿いにはルーマニア領であるの街があり、に接する場所となっていて、そこは領のの (、、、)にも接している。 この地域はと呼ばれる広大な地帯となっている。 そして、スリナ分流は沿岸の町で黒海へと注ぎ込む。 歴史 [ ] 古代 [ ] トラヤヌス橋の想像図 はからまでのドナウ川を知っており、 イストロス川と呼んだ。 もほぼ同じ地域まで進出し、 ヒステール川と呼んだ。 時代には、ほとんどから河口までの全域が、に対する帝国の北方のの役割を果たした。 、、、といった各国の首都はこの時期の最重要基地に起源を持つ。 ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンの近郊には、にローマ帝国によって築かれた、ドナウ下流初の橋梁であるの遺構が今も一部残存している。 この橋は、皇帝の時に、ドナウ北岸のへ侵攻するために建設されたもので、翌106年にダキアはローマ帝国に占領され、となった。 ドナウの両岸がローマ帝国の支配下に置かれていたのはこの ダキア(現在のルーマニア西部)のみであり、残りはドナウ川をそのまま国境としていた。 、属州ダキアは放棄され、ローマ帝国は川の南岸へと引き上げた。 ローマのダキア統治は165年間と、比較的短いものであったが、この地方はすでにローマ化されており、現在でもは民族となっている。 中世から近世 [ ] 、によって圧迫された西がドナウ川を渡り、ここにがはじまった。 これによりドナウ川はローマ帝国の北部国境としての意味を失い、ゴート族をはじめ、ゲルマン諸民族やフン族などが次々とドナウ南岸へと押し寄せた。 ローマ帝国東西分裂後は、下流はの北部国境となったものの、やがてがこの地域を奪取し、を建てた。 中流部のハンガリー平原にはやなどのが押し寄せ、そこからマジャール人によるが成立してその領域となる。 片や上流域は領となり、この地におかれた領が日ならず強大化していった。 追ってが強大化し下流域を版図に組み入れ、中流域ものによってハンガリー王国が大部分の領土を喪失すると、大部分がオスマン帝国領となった。 更に上流域のウィーンにも()と()の2度に渡って押し寄せるなど、この時期のドナウ川中下流域はオスマン帝国の重要な交通路となっていた。 近代 [ ] 第二次ウィーン包囲の失敗によるのによって中流域はオーストリアに割譲され、には大まかに上流・中流部が家のオーストリア領に、下流部がオスマン帝国領となった。 19世紀に入ると上流・中流部のオーストリア領ではの動きが強まり、1848年にはが勃発するなど体制が動揺を続けた。 またこの頃、ドイツにおいて統一の動きが高まる中、オーストリア皇帝を戴く「」か、王を戴く「」かで対立が深まり、のにより大ドイツ派のオーストリアは敗れ、最上流部はにに吸収されることとなった。 一方、から排除されたオーストリアはを強め、にはオーストリア帝国はをと結んで(二重帝国)へと改組された。 ドナウ川は二重帝国を結びつける大動脈となり、この事からその当時のを「 ドナウ帝国」と呼ぶこともある。 この時期には民族自決の動きが盛んになる中、を更に改組し諸民族が同等の権利を持つ、の構想がなされた。 また、この時期はの進展する時期であり、二重帝国内においては新しく登場した機械や技術を利用してドナウ川の開発・改修がすすめられた。 の春の洪水をきっかけにウィーン周辺で行われた河川改修工事は流路の変更を伴う大規模なものであり、10年後に完成したのちはウィーン盆地内の流路は非常に安定したものとなり、また流路の直線化によって得られた土地や水路の拡張・安定化はウィーンやオーストリア経済に多大な恩恵をもたらした。 この河川改修工事はハンガリー内においても大規模に行われ、ドナウの流れは直線的に改修され、洪水も激減した。 この河川改修により、それまで春などの増水期にはあちこちに湿原のできていたハンガリー平原は乾燥化が進み、各所に乾燥した草原が広がるようになった一方、水利の向上によって農地が拡大し、ハンガリーは農産物の一大輸出国として繁栄した。 この繁栄を受けてハンガリーの首都であるとペストも急速に成長した。 にはブダとペストの間にはじめてが架けられ、にはブダとペストが合併して市が誕生し、ハンガリーの中心として栄えた。 この時期はウィーンではが隆盛した時期であり、ワルツ王とも呼ばれるがに作曲した『』など、数々のを題材とした名曲が誕生した。 一方、下流部においてはオスマン帝国の勢力が衰える中、オスマン支配下の各民族の独立運動が盛んになっていった。 にはを公としてオスマン宗主権下のが成立した。 1829年には、に勝利したロシアがでを領有し、ドナウへと進出する足掛かりを得た。 しかし、の講和条約であるのにおいて、ロシアは南ベッサラビアおよびドナウ・デルタを失い、一時この地方から後退する。 またこの条約においてはドナウ川の国際河川化がすすめられ、各国への自由航行が保障された。 にはオスマン宗主権下のとが連合し、にが成立。 セルビア・ルーマニア両公国はのでロシア側に立ってオスマンに宣戦し、その結果によって両公国は完全独立を承認され、およびが成立。 ブルガリアもとしてオスマン宗主権下ではあるが大幅な自治を認められ、オスマン帝国はドナウ沿岸への影響力をほぼ消失した。 だが、この条約はロシアに非常に有利なものであったため各国の反発を招き、翌1878年のによって、セルビアはそのまま独立を認められたものの、ブルガリアの領土は大きく削減され、オスマンの宗主権も拡大した。 この結果はブルガリアの不満を招き、後年の台頭を呼んでバルカン半島の不安定化の一因となった。 またルーマニアも、黒海に面するの領有を認められた代わりに、ロシアに(ブジャク)地方の割譲を余儀なくされた。 ドブロジャはルーマニア人の多いこれまでの領土とはやや異質な土地であり、またドナウ南岸のおよびはブルガリアに与えられた為、この条約はルーマニアにも不満を残した。 これによりロシア帝国は再びドナウ沿岸に領土を持つこととなった。 しばらく安定していたドナウ沿岸の国境線は、のにおいて再び変化する。 この戦争においてが敗北したため、ブルガリアはおよび南ドブロジャをルーマニアに割譲した。 しかしブルガリアはこの地の奪還を悲願とし、以後30年以上、南ドブロジャはバルカン半島の火種であり続けた。 現代 [ ] によってドナウ全域は戦火へと巻き込まれ、のドイツ・オーストリア・ブルガリアと、側のロシア・セルビア・ルーマニアとの間で激しい戦闘が起きた。 結局1919年に中央同盟は敗北し、ブルガリアはによって南ドブロジャをルーマニアに割譲。 ルーマニアはソヴィエト連邦からも獲得しており、大ルーマニアが誕生した。 は解体し、旧二重帝国領のドナウ沿岸にはオーストリア共和国、、ハンガリー、の4つの新独立国が誕生した。 しかし分割されたをめぐって争いが絶えなかった上、それまで統合されていた広大な領域が分割されたためにが崩壊し、ドナウ連邦の考え方はほぼ消滅してしまった。 結局この崩壊の衝撃から立ち直ることが出来ない侭、不安定な国際情勢が続き、結局のによってオーストリアがドイツにされたのを皮切りに、沿岸諸国は次々とのに下って行くこととなった。 後、ルーマニアはベッサラビアをソヴィエト連邦に、南ドブロジャをブルガリアにした。 第二次世界大戦後には上流域の一部を除くほとんどが化し、の影響下におかれ、西側諸国の航行は困難となった。 にはにが建設され、下流域と上・中流域との航行がやっと可能になった。 終結後、によってがなくなると、ドナウ川流域の交流は再び盛んとなった。 東欧革命は沿岸諸国内の動揺を齎し、にはがユーゴスラビアから、とがソヴィエト連邦から独立し、にはによってチェコスロバキアが解体し、スロバキア共和国が成立。 現在のドナウ沿岸のが確定した。 にに繋がるが完成し、から黒海までのが可能になった。 同年にが設立されると、ドナウ川は東側諸国との国境という位置付けで重要視されることになった。 EUと東ヨーロッパにおける経済の要としてこの河川はこれからも注目されるであろうことが予想される。 だがその一方で、同河川の東岸エリアの国々においては『法の支配の尊重』という意識が低い点から「法の支配を支える機関への政治的圧力や汚職がそれを妨げている」と指摘する声が多く、特にハンガリー政府と欧州委員会はその点を巡ってこれまで何度も衝突して来ている為、今後の進展は同エリアの出方に掛かっているとも捉えられる面がある。 国際関係 [ ] ドナウ委員会加盟国: 本加盟国 オブザーバー ドナウ川は古くより諸国の重要なやの拠点として機能していたが、などいくつかのやがあり、から部まで直接ですることは近年まで不可能であった。 しかし、19世紀中盤になるとドナウ川においても化が進められ、のに於いてが設立されて、河口からまでを国際管理下に置くと共に、各国への自由航行が保障された。 第一次世界大戦後には新たにが設立され、航行の上限であるドイツのウルムにまで管理区域が拡大されたが、第二次世界大戦後、にはの指導下の元、が諸国間で締結された。 この条約によってルーマニアのに ()が設立され、ドナウ川の航行を担当したが、当時の同委員会の加盟国はソ連・ルーマニア・・ブルガリア・・ハンガリーで、東側諸国のみの参加だった。 この頃には西側に属したウィーンと東側に属したその域とのもほとんどなくなっていた。 のちにドナウ委員会にはオーストリアが正加盟国として、がとして参加し、本部もにはハンガリーのへと移転したが、ドナウ川航行が東側優位のもとにあったことに違いはなかった。 終結後もドナウ川委員会は存続し、ドナウ川航行の調整を行っているが、ドナウ川沿岸国以外も多数の国がオブザーバーとして参加している。 ドナウ委員会加盟国はから、本加盟国がドイツ・オーストリア・スロバキア・ハンガリー・クロアチア・セルビア・ルーマニア・ブルガリア・モルドバ・ウクライナの沿岸10ヶ国とを合わせた計11ヶ国であり、オブザーバーは・・・・・・・・・の10ヶ国である。 開発 [ ] 、政府と政府はドナウ川の開発条約を締結し、ハンガリーののすぐ上流にあると、ハンガリーとチェコスロバキアの国境上にあるの2か所にをし、や水量調整による防止および安定航行の実現をめざした。 にはハンガリーが財政上の理由で4年間延期を申し入れた為、着工はとなった。 しかし、この頃からハンガリーではや部のを理由としてダム建設が起こり、にはによってしたハンガリー新政府が計画を中止した。 対立はさらに激化し、にはハンガリーは条約自体を破棄。 チェコスロバキアから権利を継承したはこれを非難し、両国の対立は頂点に達した。 その後、の仲裁によってこの問題はにあるへと提訴され、、同裁判所は条約を一方的に破棄したハンガリーとダム建設を強行しを破壊したスロバキア双方に問題があるとして両国に罰金を命じた。 このは、国際司法裁判所がの紛争に対して判決を下した世界初のケースであった。 世界遺産 [ ] ドナウ川沿岸には、オーストリアの(文化遺産)、ハンガリーの(文化遺産)、ブルガリアの(自然遺産)、ルーマニアの(自然遺産)の4つのが存在する。 ドナウ川を題材にした作品 [ ] 音楽 [ ]• :歌曲『ドナウ川の上で』(D553)• :バレエ『』• ():『ライン川からドナウ川へ』(作品138)• :ワルツ『ドナウ川の歌』(作品127)• :『ドナウ川の花』(Donau Blumen)• :ワルツ『 』(作品314)• ヨハン・シュトラウス2世:ポルカ『ドナウの岸辺から』(作品356)• ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ『 ()』(作品427)• :バレエ『』• :ワルツ『ドナウ川の物語』(作品446)• :ワルツ『 』• :ワルツ『ドナウ伝説(ドナウの歌)』(作品233)• :ワルツ『ドナウ川の物語』(作品99)• :交響詩『ドナウ』• :交響詩『』• :ワルツ『ドナウ川の夢』 文学 [ ]• :『』() 脚注 [ ] []• 「ベラン世界地理体系8 ロシア・中央アジア」p78-79 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2011年6月20日初版第1刷• 「ベラン世界地理体系8 ロシア・中央アジア」p173 田辺裕・竹内信夫監訳 朝倉書店 2011年6月20日初版第1刷• 日刊建設工業新聞社 2018年1月17日• 2018年1月17日• 2018年1月23日• DIGIMA NEWS 2018年2月8日• 「ドナウ河紀行」p204 加藤雅彦 1991年10月21日 岩波新書• 「ウィーン ブルジョアの時代から世紀末へ」p121-122 山之内克子 講談社現代新書 1995年11月20日第1刷• 2017年5月29日• 「ドナウ河紀行」p126 加藤雅彦 1991年10月21日 岩波新書• ドナウ委員会公式サイト 2014年12月7日閲覧• 「地球の水が危ない」pp90-94 高橋裕 岩波書店 2003年2月20日第1刷• 国際流域での水の分配をめぐる係争と協調 - 中山幹康 東京地学協会 2012年12月31日閲覧• 関連項目 [ ]• (、、、) 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 ドナウ川に関連する および があります。 参考地図:•

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