スハフ 43。 一般形客車/スハ43系

客車倶楽部過去ログ−678−銀河のスハ44、スハフ43の扉について ・ 「砂の器」

スハフ 43

やはり「くろしお」の主な利用導線は、大阪〜紀伊半島であり、新幹線の乗継需要は 然に非ずという事でしょうか。 大阪に停車すれば、状況は多少異なるでしょうけれど。 紀伊半島の高規格道路事情を思えば、ある程度、予想できる話ではありますが、今時、 こうしたローカル需要が活況を呈している事には、感慨を覚えます。 太公望の需要が多かったと聞く、夜行「はやたま」も、旧客+10系寝台車 2両という 陣容でしたね。 列車名の由来が、新宮所在の「熊野速玉大社」である事を知ったのは、 165系化された後の事でしたが、運転区間が広島県内のみに縮小された後も 松江城の 美称を名乗っていた急行「ちどり」の例など、列車名の由来の詮索は奥が深い世界で、 それだけに、安易な片仮名言葉の導入には、抵抗を覚えるのでした。 なお紀勢線では、 専ら貨物用かと見受けられますが、EF15も稼動していましたね。 結局の処、五条と新宮を結ぶ構想自体が、十津川村の地勢に鑑みても大言壮語であり、 バス路線を巡る駆引材料に過ぎなかったとする観測は、然もありなんという感じです。 緑色が基調の 田園風景と「こだま色」との相性の良さを示した好例ですね。 前編自体は一瞥したのみですが、橙色の入替機が行き交い タンク車が多数留置される「蒲田操車場」の演出が、何処の貨物駅で撮られたものか 気になりますが、少なくとも架線柱は、比較的後年の仕様と思われます。 それ以前に、 当時の同操車場は、どの程度、電化されていたものやら? 投稿者 EF6113 投稿日 2011年 9月11日 日 21時34分37秒 タイトル 銀河のスハ44、スハフ43の扉について 20系になる前の「銀河」について調べています。 昭和51年まで使用されていたスハ4425、スハ4428、スハ4433、スハフ431について 調べています。 これらの窓枠はすべて20系交代直前まで木枠だったことは、この掲示板でご教授し ていただいたことがあります。 扉はどうだったのでしょうか?スハフ431はどうも最後まで2枚プレス(新製時の扉については このように表記してよろしいでしょうか?)だったようです。 スハ4425、28、33はどうだったのでしょうか?特に33についてはなんとか判明できぬものか、 と思っております。 当時の写真を調べても、扉は走行時も開いている場合が多くてわかりかねます。 当時の記憶のある方、または御存知の方、ご教授していただければ幸いです。 投稿者 ED76109 投稿日 2011年 9月12日 月 00時48分24秒 タイトル 「砂の器」を巡る戯言 おばんでございます。 「砂の器」フリークの「ED76109」であります。 雑魚様 >当時の同操車場は、どの程度、電化されていたものやら 小説が発表されたのは、昭和36年前後でありました。 「蒲田操車場」と記述されているのは、実は「蒲田電車区」であります。 小説では、「蒲田」始発の京浜東北線を動かそうとした「蒲田車掌区」の車掌氏が、 「三木元巡査」の死体を発見して・・・という展開。 ですから、小説に忠実であれば、「ゲタ電」の7連? が撮影には必要なのであります。 実際のロケ地は、古い形式であろう「直流EL」が映っていたことから、 「秩父鉄道」の「寄居」辺りと、小生は踏んでいるのですが・・・。 さて、今回も「球形の荒野」同様に、色々と「鉄」的な戯言を申し上げてみます 小説とは、少々ストーリー展開が異なりますが。 1 まず、犯人である「和賀英良」が、「羽後亀田」から帰京するシーンがございました。 かと考えております。 もし、「秩父鉄道」で撮影されたのであれば、旧客を保有しているのかと思われます。 実際の昭和36年頃であれば、「C57」や「D51」が「羽越本線」の客レを担当したのではと推察され、 「今西刑事」と「吉村刑事」を乗せた「急行羽黒」も当該機が牽引したのでありましょうか。 また、同様に「三木元巡査」の「亀嵩」時代を調査するために、「今西刑事」は「急行出雲」にも揺られることに・・・。 「東京」から「宍道」までの旅も、映画「張込み」のような汽車旅だったのでありましょうか。 2 物語の後半で、「和賀英良」は「大阪大空襲」で戸籍を詐称した「本浦秀夫」という人物であることに、 捜査陣が気付くという展開があり、過去の悲劇が次第に紐解かれていきます。 その際に「吉村」刑事たちは、関西方面の出張に「ECこだま」らしき「151系のハザ」で西下する設定でありました。 その際、「岡山の病院」を訪れた「吉村」刑事は、 車中でカレチ氏から、「大阪」で下車する旨を「電報」で伝えられる設定。 実際には「第二富士」が「宇野」から運転されておりましたので、 「富士」車中で電報を受け取ったことになるのでしょう。 また、昭和36年頃、「かもめ」はまだPCで運転され、「広島」以西は「C62」牽引だったのでしょうか・・・。 3 「今西刑事」たちは、「本浦秀夫」の出生地である「山中温泉」の奥地へと歩みを進めます。 そこで、犯人「和賀英良」との接点が見える重大な証拠をつかむヒントに気付かされます。 そこで、彼らは「北陸鉄道加南線」らしき私鉄で、「北陸本線」の接続駅 粟津か動橋 を目指す設定らしいのですが、 その時乗車したDCは「キハ05」らしき2連でありました。 小生、正直写真等では見たことはあるのですが、実際の映像では初めて見ました。 「CG」の合成にしては「片運転台」であり、果たして何処かの「地鉄」に保存されているのでありましょうか・・・。 今回は、「質問的戯言」ばかりで失礼致しました。 以上、「中年客車鉄ちゃん」でありました。 機関車の番号でも解れば調べ様が無きにしも非ずですけ れど。 EF6113様 「銀河」には度々乗車しましたが、いつもハネでした。 何しろ古い事ですから-----。 その後は20系のお下がりに一度乗車した事がありました。 投稿者 仙コリ(管理人) 投稿日 2011年 9月12日 月 19時36分37秒 タイトル 「砂の器」の撮影地 ED76109様 先日放送されたドラマ「砂の器」の撮影地についてですが、雑魚様も書かれている通り 土曜日の昼頃に番宣のための特別番組が放送され、その中でロケ地一覧のフリップがあり、 ロケの様子も紹介されていました。 鉄道関係のロケ地としては、西から 片上鉄道 吉ヶ原駅(岡山県) 交通科学博物館(大阪府) 信楽高原鉄道 雲井駅(滋賀県) 三岐鉄道 旧富田駅(三重県) の4ヶ所が上げられており、そのうち上の二ヶ所のロケの模様も紹介されていました。 片上鉄道吉ヶ原駅では、同駅及び駅前を使用したロケ風景(「勝沼駅」と「羽後亀田駅」) 同駅に保存されているキハ312・ホハフ3002等を使用したロケの様子が紹介されていました。 キハ312(自社発注・国鉄キハ04タイプ)は実際に走行しての撮影もしていましたので、 乗車したキハ05らしき2連のDCは、同車と静態保存のキハ303とキハ702を使用した撮影 であったと思われます。 また、ホハフ3002(元国鉄オハ35 1227)も紹介されており、本来は青色に塗装されていた 同車を撮影にあわせてブドウ色に塗りなおし、表記もオハ35 1227となっていました。 窓から紙ふぶきを撒くシーンの紹介や、「急行さんべ5号」を再現したとの話もありまして ドラマに出てくる客車は、外部の映像・車内の映像ともに、この車両のようです。 交通科学博物館においては、キハ81車内で駅弁を食べるシーンが紹介されていましたので、 特急列車ハザのシーンはDC車内でEC車内の様子を撮影という苦肉の策だったようです。 もっと苦肉の策の「蒲田操車場」ですが、上記4ヶ所を調べると三岐鉄道旧富田駅が該当 するようで、登場する直流電気機関車は同社のED458で間違いないと思われ、多数登場する 東日本セメントと書かれたタンク車は同社の筆頭株主である太平洋セメントを書き換えた 車両であると思われます。 地図でみても同場所には多数の側線が存在するので、ここであると思います。 実はドラマ本編は録画しただけでまだ見ていないのですが、後日じっくり見てみようと 思います。 投稿者 雪だるま 投稿日 2011年 9月12日 月 21時19分11秒 タイトル 社長行方不明 JR北海道の社長がけさから行方不明になっており、自宅から遺書のようなものが発見されており、心配されるところです。 無事保護されることを祈ります。 今日も日中千歳線で人身事故がありダイヤが乱れました。 投稿者 雑魚 投稿日 2011年 9月13日 火 09時33分18秒 タイトル vs 近鉄 三岐鉄道の旧富田駅で撮影とは、旨い所に着目しましたね。 同鉄道の旅客列車が近鉄 接続に切り替えた1985年、既に関西線の亀山以東は電化されていましたが、それでも 近鉄の圧倒的優位を覆せなかった、同地固有の事情が窺えます。 富田駅では、関西線と完全に分離された一面二線構造のホームを有していた様ですが、 現行駅では、近鉄上り線と同一ホームで乗換えが効くなど、利便性も向上しましたね。 この近鉄接続を果たさんとした結果、富田北方では、JR・近鉄との間で三つ巴的な 立体交差が演出され、配線好きには堪らない処です。 近鉄による廃止意向を回避する為とは云え、員弁川で隔てられた地勢を考慮してなお いなべ市域の一部では、競合関係にあった可能性も推定される北勢線を、三岐鉄道が 継承したのは、地方私鉄でも珍しい例と存じます。 同じ軽便規格の内部・八王子線は 総延長が僅か 7kmで、バス化も容易と思われますが、こちらは近鉄傘下で健在ですね。 JRと近鉄の競合性が際立つ三重県にあって、近鉄の優位性を感じさせる材料は多々 ありますが、津新町、宇治山田など、JRは通過する主要市街地に固有の駅を擁する 私鉄ならではの肌理の細やかさにも、その一端を感じます。 主要系統が「甲乙」で差別化された特急の体系も見事ですが、我が学生時代に比べて、 乙種の比率が高くなった様に感じられ、湯ノ山温泉発着便が廃止された事をも含めて、 利用者の主流層が、沿線各都市で乗降する用務客に移りつつある印象です。 かつては 日光、鬼怒川への観光客輸送に特化していた東武線特急も、春日部・栃木・新鹿沼に 停車する御時世ですしね。 1973年の伊勢線の開通に伴う、亀山での方向転換の解消は、紀勢線の特急にとっては、 対近鉄の競争力を強化する為の材料になり得た筈ですが、後年「南紀」車内で聞いた 話によれば、その後も、松阪で近鉄特急から乗り継ぐ需要が少なからずあった様です。 1984年に廃止された「紀伊」は機関車運用の都合ゆえか、最後まで亀山経由でしたが 特急格上げは伊勢線開通後だったのですね。 投稿者 竹中@ノーブルジョーカー 投稿日 2011年 9月13日 火 11時52分17秒 タイトル RE:銀河のスハ44、スハフ43の扉について EF6113さん 扉がどのタイプかな?と調べると、開いた写真しかなかったり、閉じていても撮影の角度によっては確認 できなかったり、苦労しますよね。 とりあえずスハ44 28の写真がありますのでご覧ください。 昭和51年2月19日 横浜駅 104レ 投稿者 クモイ103 投稿日 2011年 9月13日 火 21時08分35秒 タイトル 羊蹄丸 遂に終焉か この2011年9月末で公開を休止する、東京・お台場の「船の科学館」と、 保存されている青函連絡船「羊蹄丸」(2代目)。 今日は貴重な平日の公休日だったので、週末では混雑しそうなこのスポットに行ってきました。 繋留しておくだけで莫大な維持費のかかる大型船が公開休止となれば、それはもう解体への片道切符も同然です。 この羊蹄丸のデビューは昭和40(1965)年。 青函連絡船としての活躍は昭和63(1988)年までの23年間でした。 それから奇しくも同じ23年後の今年、安住の地と思えたお台場での静かな余生にも、終止符が打たれようとしています。 現役引退後の平成4(1992)年、イタリアのジェノバで開催された「国際船と海の博覧会」に 日本政府出展のフローティングパビリオンとして活用されました。 その時は自力航行ではなくこの巨体をさらに巨大な台船に載せ、 曳航されて地球の反対側まではるばる「出張」してきたのでした。 その後この船の科学館にやって来て、展示の先輩である初代南極観測船「宗谷」と仲良く並んでいました。 ジェノバ行きの時に塗り替えられた船体色は、船の科学館でもしばらくそのままでしたが、 現在では青函連絡船時代のクリームとエンジのツートンカラーに復元されています。 全部で7隻あった「津軽丸形」の青函連絡船ですが、今国内に残っているのはこの羊蹄丸の他に、 青森桟橋の「八甲田丸」と函館桟橋の「摩周丸」だけ。 そういえば摩周丸も一時公開休止となり廃船の危機に直面しましたが、函館市の努力で何とか維持されているようですね。 羊蹄丸も何とか維持して欲しい気持ちはやまやまですが、巨額の費用が絡む話ですから如何ともし難いですね。 せめてあと1回行ければいいな。 写真は、船の科学館の本館最上階から見下ろした羊蹄丸(左手前は南極観測船「宗谷」、左後方は「ゆりかもめ」の軌道)、 そして船内の車両甲板に作られた「昭和30年頃の青森駅」のジオラマと、発車を待つ上野行き急行「津軽」です。 (客車の形式や時代考証が…なんてヤボなツッコミは無しの方向でひとつ(笑)) このジオラマ、当時の客や駅員の人形が配置されて、会話しているんですよ。 駅構内だけでなく駅前商店街のリンゴ屋の看板娘?とか、とにかく凝っていて秀逸です。 あと半月ですが、行ける方はどうぞ。 「かつぎ屋の荷物」にも挑戦してみて下さい。 投稿者 ED76109 投稿日 2011年 9月13日 火 23時55分12秒 タイトル 「砂の器」に係る多謝返礼 おばんでございます。 「ED76109」であります。 仙コリ 管理人 様 詳細なロケ地に係る解説等、ありがとうございます。 >キハ312(自社発注・国鉄キハ04タイプ)は実際に走行しての撮影もしていましたので この形式のDCは、当地では「釧路」や「美唄鉄道」等で活躍していた記録が残っております。 「レールバス」といった風情のDCであり、小生は乗車経験はありませんが、 道東の原野を単行で走行する姿がマッチしていると思っております。 しかし、よくもスタッフが見つけてきたものだと感心しています。 >ホハフ3002(元国鉄オハ35 1227)も紹介されており、本来は青色に塗装されていた同車を 撮影にあわせてブドウ色に塗りなおし 「羽黒」にしろ、「出雲」にしろ、そして「トカホセの夜行レ」の設定にしろ、少し古ぼけすぎはしないかといった印象。 しかしかえってその部分が、薄汚れた「往年の夜行レ」のイメージを浮き彫りにしていたように、小生は考えました。 ちなみに、当時の「出雲」は東京を22時ごろに発車して、「松江」着は夕刻17時ごろ。 さらに終着の「浜田」は20時過ぎの長時間運転レであり、時代を感じるものであります。 >交通科学博物館においては、キハ81車内で駅弁を食べるシーン なるほど。 そうだったのですか。 「吉村刑事」たちは「こだま」ではなく、「はつかり」で駅弁を食していた!? ことになりますね。 昨年制作された「球形の荒野」では、「湘南色80系」の「夜行準急」で「京都」へ下る設定がございました。 ですから、「キハ813」や「クハ86001」が保存されている「交通科学博物館」でのロケ撮影となったのですね。 今後、時代考証にある程度沿った映像を求めるとなれば、当博物館の存在は大きくなるでありましょう。 >苦肉の策の「蒲田操車場」ですが、上記4ヶ所を調べると三岐鉄道旧富田駅が該当するようで 過去の他局等が制作した「砂の器」では、 「松竹作 昭和49年公開 」と「CX作 昭和52放送 」が「103系ブルー色」でした。 さすがに、「73系」がずらりと並ぶ光景は、もうCG加工でないと望めないのでしょうね。 さらに、今回「南カマ」がすでに所属車両が皆無であることを知り、時代が流れたことを実感致しました ちなみに「京浜東北線」の車両は全て「北ウラ」所属とのこと。 であれば「北モセ」も全滅でありますか。 マロネロ38様へ 再度視聴の折に、注意して見てみます。 その際にご報告いたします。 長々と失礼致しました。 以上、「雪だるま」様が速報されました「JR北海道」社長の失踪に係り、 靴が石狩浜で発見されたという知らせに、心を痛めている「中年客車鉄ちゃん」でございました。 投稿者 EF6113 投稿日 2011年 9月14日 水 00時02分27秒 タイトル 70年代の鉄道ファン 竹中@ノーブルジョーカー様、マロネロ38様 貴重なご意見、写真ありがとうございます。 近代化工事はスハ44 1〜22については昭和35年度に行われたようで、このとき、緩急車化、 座席の転換化と同時に窓のサッシ化、デッキ扉の開閉窓付扉化が行われたようです。 銀河用に最後まで残ったスハフ4313がこのグループに入りますね。 スハフ431〜3とスハ4423〜34の近代化は昭和36年度に近代化が行われましたが、予算の関係で サッシ化は見送られたようです。 問題はこのときデッキ扉はどうしたかということです。 スハフについては少なくとも、扉の変更は しなかったようです。 スハフ431は残された写真より最後までプレス扉だったようです。 小生の推定ですがおそらくスハの扉もそのままだったのではないか。 マロネロ38様が銀河に 乗車された時は、おそらくプレス扉のままであったのでしょう。 後日Hゴム扉に交換されたもの があり、スハ4428については昭和51の最終日の写真の姿に至ったのではないかと思います。 10系、スハ44時代の銀河特集は鉄道ファン76年5月号にあり、当時中学1年生だった小生に特急電車、 ブルートレイン以外の鉄道車両にも目を向けるきっかけとなりました。 今も70年代中頃の 鉄道ファン誌をよく眺めております。 今のファン誌より面白いのはどうしてでしょうか? 投稿者 ゴボウ 投稿日 2011年 9月14日 水 20時05分36秒 タイトル 我が家に「さんべ」がやってきた こちらに書きこませていただくのは何年ぶりか。 ゴボウと申します。 ヤフーオークションでNゲージの「ちくま」12系+20系併結編成を入手しまして、当方のもとへやってきました。 が、うちの主役は赤いDD51。 どう見ても「さんべ」なのでありました(笑)。 旧型客車に比べるとかなり「新しめ」のはずなのですが、現在の鉄道車両を見慣れた目には 非常にクラシックな感じがします。 12系+20系になる前の「さんべ」にはオロハネ10やスハ44が連結されていたこともあるとか。 投稿者 マロネロ38 投稿日 2011年 9月14日 水 20時53分7秒 タイトル 戦前のトルコン試験車 遅くなりましたが、9月2日に雑魚様がアップされた旧加越線キハ125-126の新造裏話 車庫火災 の件で、資料が一部出てきました。 有田(ありだ)鉄道から購入して認可前に焼いてしまった国鉄の中古DCは、大変な 経歴の持ち主でした。 キハ41038 大鉄局のトルコン試験車)リスホルムスミス式と有りますから 後世のTC2A? キハ125-126入線までのつなぎ借用はいずれも国鉄からでした。 以上ご参考までに。

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国鉄スハ43系客車

スハフ 43

スハフ43-10 KATOのスハ44を スハフ43 10番台 に改造する 2000. 21 2001. 09 update [はじめに] KATOのスハ44を改造してスハフ43の10番台を作ってみました。 この車輌はスハ44に車掌室を設けて緩急車に改造したもので、形態的にはデッキ位置はスハ44と変わらず、車掌室と客室との境の窓が埋められているのが主な特徴です。 以下その報告です。 [使用パーツなど] KATOの単品売りスハ44を使用しました。 屋根と床下はそのまま使用します。 その他、近代化改装車用のドアパーツ(銀河モデル)、テールライトパーツ(タヴァサ)、ミニライトユニット(キングスホビー)などを使用しました。 [車体の工作] まずは窓埋めです。 デッキから2番目の窓を0. 2mmプラ板(透明プラバン)で塞ぎ、継ぎ目に瞬間接着剤を流してペーパー( 600、 1000の耐水ペーパーを窓高さに切ったプラ板に貼ったもの)で仕上げ、また車体裏側からも0. 5mmのプラ板を貼って補強しました。 続いてデッキドアと洗面所・トイレ窓に銀河のパーツを貼って近代化改装の姿にしました。 次に妻板の加工に移ります。 所定の位置にテールライト用の穴を開け、タヴァサのパーツを取り付けました。 デッキ側には0. 2mmプラ板から切り出した手すり(ほとんどステップですが)を接着し、さらにGMの余り物妻板パーツから切り出した妻板ドアを付けました。 [テールライトの点灯化] 車掌室側のテールライトを点灯化しました。 座席パーツを2列分切り取って車掌室とし、下回りにセットしたASSYパーツの余り物の通電板を車掌室床部まで延長して接点としました。 そこにプラ板を介して床板にネジ止めしたミニライトユニットのリード線を接触させ、ユニットから出ている光学繊維をテールライトまで導きました。 なお、光学繊維の径が大きかったのでテールライトパーツを0. 8mmドリルで中グリしましたが、これはパーツを妻板に付ける前に行っておくべきでした。 また、光学繊維の切り口にはクリアの赤を塗っておきました。 [塗装など] 車体を青15号(GM7番)で塗装した後、インレタ貼り、ドアサッシ磨き出し、Hゴム色入れなどを行い、床、窓ガラス(窓埋めした部分は切削、デッキ部は削除後新設)、屋根、貫通幌と合わせて一応の完成です。 なお、スハフ43の10番台の実車はアルミサッシになっていますが、塗装ですっきり仕上げる自信が無いためアルミサッシ化していません。 このスハフ43は、同様に青15に塗替え等を行ったスハ44との2両で、往年の銀河など急行客車列車の指定席車として運用されることになります。 Copyright C Hiroshi IMAIZUMI 2000, 2001 All Rights Reserved.

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客車倶楽部過去ログ−678−銀河のスハ44、スハフ43の扉について ・ 「砂の器」

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切妻車体に鋼体化客車で確立されたデッキを挟んで車端部寄りにある乗務員室、 妻板右側の後方監視窓といったスタイルは、多くの人が思い起こす旧型客車列車の最後尾のイメージそのものだ。 また、緩急車改造による他の形式からの編入もごく僅かで、 オリジナルの形式イメージを一貫して保ったこともその要因と言えよう。 戦後製である本形式は、旧型客車が優等列車から退く1982年11月のダイヤ改正まで、 全国主要幹線の夜行急行列車の座席車として運用され続けた。 上野駅に夜が訪れると、地平ホームには越前・能登・鳥海・妙高といった列車が、 次々に入線しては発車して行った情景が思い出される。 一方、新幹線の延伸によって都落ちした者たちも、 各地の幹線ローカル列車の主役として旧型客車の晩年まで活躍し続けた。 スハフ42 101 福フチ 浜田発 福知山行き 544レ 1985年 2月 9日 米子駅 近代化改装されてドアはHゴム支持に交換されているが、窓枠は木製、トイレ窓は1段上昇式であり、 オリジナルのイメージを保っている。 写真は浜田から上ってきた福知山行き544レで、ここ米子で機関車の交換が行われる。 スハフ42 140 福フチ 浜田発 福知山行き 544レ 1984年 3月15日 米子駅 原型の洗面所窓を残しつつも、アルミサッシ化・FRP製水槽への換装がなされて軽快な外観。 近代化改装により室内も明るいイメージとなって、優等列車を思わせるスタイルである。 この車両は京都寄りの先頭車なのだが、ここ米子で機関車の取替えを行っている最中のスナップである。 スハフ42 2153 福フチ 浜田発 福知山行き 544レ 1984年 3月16日 米子駅 洗面所窓は上段内折で上側が透明ガラス、また手前の3位側客用ドアはHゴム支持の標準タイプである。 前出の140号と同一列車を翌日に撮影したものだが、 本スナップでは米子以東を担当する機関車が既に到着している。 但し、連結作業中であり暖房蒸気が客車へは供給されておらず、DD51の屋根上に排気されている。 便所窓は洗面所と同じく上段内折タイプながら、上段・下段ともに白色ガラスになっている。 スハフ42 227 福フチ 浜田発 福知山行き 544レ 1985年 2月 9日 米子駅 銀色のアルミサッシとHゴム支持のトイレ窓、Hゴム支持標準タイプの近代的なスタイルで、 幹線の夜行急行列車を髣髴させる仕様だが、水槽はオリジナルのままである。 本車では車掌室側の票差しは車端部寄りに付いている。 スハフ42 2238 福フチ (留置車両) 1984年 3月17日 豊岡駅 近代化改装車ながら、扉の曇りガラスに「車掌室」とペイントされた貫通路は、 プレスドアでオリジナルのイメージを良く保っている。 妻面や端梁周辺の空気・蒸気・電気配管のディティールが良くわかる。 2000番台の電気暖房搭載車であるが、 山陰筋では無用なためか、渡り線のケーブルが撤去されていた。

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