指貫 現代仮名遣い。 link319

『枕草子』の現代語訳:125

指貫 現代仮名遣い

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『枕草子』の現代語訳:131

指貫 現代仮名遣い

堀川の 大殿様 ( おほとのさま )のやうな方は、これまでは 固 ( もと )より、後の世には恐らく二人とはいらつしやいますまい。 噂に聞きますと、あの方の御誕生になる前には、 大威徳明王 ( だいゐとくみやうおう )の御姿が 御母君 ( おんはゝぎみ )の夢枕にお立ちになつたとか申す事でございますが、 兎 ( と )に 角 ( かく )御生れつきから、並々の人間とは御違ひになつてゐたやうでございます。 でございますから、あの方の 為 ( な )さいました事には、一つとして私どもの意表に出てゐないものはございません。 早い話が堀川のお邸の御規模を拝見致しましても、壮大と申しませうか、豪放と申しませうか、 到底 ( たうてい )私どもの凡慮には及ばない、思ひ切つた所があるやうでございます。 中にはまた、そこを色々とあげつらつて大殿様の御性行を 始皇帝 ( しくわうてい )や 煬帝 ( やうだい )に比べるものもございますが、それは 諺 ( ことわざ )に云ふ 群盲 ( ぐんもう )の象を 撫 ( な )でるやうなものでもございませうか。 あの方の 御思召 ( おおぼしめし )は、決してそのやうに御自分ばかり、栄耀栄華をなさらうと申すのではございません。 それよりはもつと下々の事まで御考へになる、云はば天下と共に楽しむとでも申しさうな、 大腹中 ( だいふくちう )の御器量がございました。 それでございますから、二条大宮の 百鬼夜行 ( ひやつきやぎやう )に御遇ひになつても、格別 御障 ( おさは )りがなかつたのでございませう。 又 陸奥 ( みちのく )の 塩竈 ( しほがま )の景色を写したので名高いあの東三条の河原院に、夜な/\現はれると云ふ噂のあつた 融 ( とほる )の左大臣の霊でさへ、大殿様のお叱りを受けては、姿を消したのに相違ございますまい。 かやうな御威光でございますから、その頃洛中の老若男女が、大殿様と申しますと、まるで 権者 ( ごんじや )の再来のやうに尊み合ひましたも、決して無理ではございません。 何時ぞや、内の梅花の宴からの御帰りに御車の牛が放れて、折から通りかゝつた老人に怪我をさせました時でさへ、その老人は手を合せて、大殿様の牛にかけられた事を難有がつたと申す事でございます。 さやうな次第でございますから、大殿様御一代の間には、後々までも語り草になりますやうな事が、随分沢山にございました。 が、その数多い御逸事の中でも、今では御家の重宝になつて居ります地獄変の屏風の由来程、恐ろしい話はございますまい。 日頃は物に御騒ぎにならない大殿様でさへ、あの時ばかりは、 流石 ( さすが )に御驚きになつたやうでございました。 まして御側に仕へてゐた私どもが、魂も消えるばかりに思つたのは、申し上げるまでもございません。 中でもこの私なぞは、大殿様にも二十年来御奉公申して居りましたが、それでさへ、あのやうな凄じい 見物 ( みもの )に出遇つた事は、ついぞ又となかつた位でございます。 しかし、その御話を致しますには、予め先づ、あの地獄変の屏風を描きました、 良秀 ( よしひで )と申す画師の事を申し上げて置く必要がございませう。 良秀と申しましたら、或は唯今でも猶、あの男の事を覚えていらつしやる方がございませう。 その頃絵筆をとりましては、良秀の右に出るものは一人もあるまいと申された位、高名な絵師でございます。 あの時の事がございました時には、彼是もう五十の 阪 ( さか )に、手がとゞいて居りましたらうか。 見た所は唯、背の低い、骨と皮ばかりに痩せた、意地の悪さうな老人でございました。 それが大殿様の御邸へ参ります時には、よく 丁字染 ( ちやうじぞめ )の 狩衣 ( かりぎぬ )に 揉烏帽子 ( もみゑぼし )をかけて居りましたが、人がらは至つて卑しい方で、何故か年よりらしくもなく、唇の目立つて赤いのが、その上に又気味の悪い、如何にも獣めいた心もちを起させたものでございます。 中にはあれは画筆を 舐 ( な )めるので紅がつくのだなどゝ申した人も居りましたが、どう云ふものでございませうか。 尤もそれより口の悪い誰彼は、良秀の 立居 ( たちゐ ) 振舞 ( ふるまひ )が猿のやうだとか申しまして、猿秀と云ふ 諢名 ( あだな )までつけた事がございました。 いや猿秀と申せば、かやうな御話もございます。 その頃大殿様の御邸には、十五になる良秀の一人娘が、 小女房 ( こねうばう )に上つて居りましたが、これは又生みの親には似もつかない、愛嬌のある 娘 ( こ )でございました。 その上早く女親に別れましたせゐか、思ひやりの深い、年よりはませた、悧巧な生れつきで、年の若いのにも似ず、何かとよく気がつくものでございますから、 御台様 ( みだいさま )を始め外の女房たちにも、可愛がられて居たやうでございます。 すると何かの折に、丹波の国から人馴れた猿を一匹、献上したものがございまして、それに丁度 悪戯盛 ( いたづらさか )りの若殿様が、良秀と云ふ名を御つけになりました。 唯でさへその猿の容子が 可笑 ( をか )しい所へ、かやうな名がついたのでございますから、御邸中誰一人笑はないものはございません。 それも笑ふばかりならよろしうございますが、面白半分に皆のものが、やれ御庭の松に上つたの、やれ 曹司 ( ざうし )の畳をよごしたのと、その度毎に、良秀々々と呼び立てゝは、兎に角いぢめたがるのでございます。 所が或日の事、前に申しました良秀の娘が、御文を結んだ寒紅梅の枝を持つて、長い御廊下を通りかゝりますと、遠くの 遣戸 ( やりど )の向うから、例の小猿の良秀が、大方足でも 挫 ( くじ )いたのでございませう、何時ものやうに柱へ駆け上る元気もなく、 跛 ( びつこ )を引き/\、一散に、逃げて参るのでございます。 しかもその後からは 楚 ( すばえ )をふり上げた若殿様が「 柑子 ( かうじ ) 盗人 ( ぬすびと )め、待て。 」と 仰有 ( おつしや )りながら、追ひかけていらつしやるのではございませんか。 片手に梅の枝をかざした儘、片手に 紫匂 ( むらさきにほひ )の 袿 ( うちぎ )の袖を軽さうにはらりと開きますと、やさしくその猿を抱き上げて、若殿様の御前に小腰をかゞめながら「恐れながら畜生でございます。 どうか御勘弁遊ばしまし。 」と、涼しい声で申し上げました。 が、若殿様の方は、 気負 ( きお )つて駆けてお出でになつた所でございますから、むづかしい御顔をなすつて、二三度御み足を 御踏鳴 ( おふみなら )しになりながら、 「何でかばふ。 その猿は柑子盗人だぞ。 」 「畜生でございますから、……」 娘はもう一度かう繰返しましたがやがて寂しさうにほほ笑みますと、 「それに良秀と申しますと、父が 御折檻 ( ごせつかん )を受けますやうで、どうも唯見ては居られませぬ。 」と、思ひ切つたやうに申すのでございます。 これには 流石 ( さすが )の若殿様も、 我 ( が )を御折りになつたのでございませう。 「さうか。 父親の 命乞 ( いのちごひ )なら、 枉 ( ま )げて 赦 ( ゆる )してとらすとしよう。 」 不承無承にかう仰有ると、 楚 ( すばえ )をそこへ御捨てになつて、元いらしつた遣戸の方へ、その儘御帰りになつてしまひました。 良秀の娘とこの小猿との仲がよくなつたのは、それからの事でございます。 娘は御姫様から頂戴した黄金の鈴を、美しい 真紅 ( しんく )の紐に下げて、それを猿の頭へ懸けてやりますし、猿は又どんな事がございましても、滅多に娘の身のまはりを離れません。 或時娘の 風邪 ( かぜ )の心地で、床に就きました時なども、小猿はちやんとその枕もとに坐りこんで、気のせゐか心細さうな顔をしながら、 頻 ( しきり )に爪を噛んで居りました。 かうなると又妙なもので、誰も今までのやうにこの小猿を、いぢめるものはございません。 いや、 反 ( かへ )つてだん/\可愛がり始めて、しまひには若殿様でさへ、時々柿や栗を投げて御やりになつたばかりか、侍の誰やらがこの猿を 足蹴 ( あしげ )にした時なぞは、大層御立腹にもなつたさうでございます。 その後大殿様がわざ/\良秀の娘に猿を抱いて、御前へ出るやうと御沙汰になつたのも、この若殿様の御腹立になつた話を、御聞きになつてからだとか申しました。 その 序 ( ついで )に自然と娘の猿を可愛がる 所由 ( いはれ )も御耳にはいつたのでございませう。 「孝行な奴ぢや。 褒めてとらすぞ。 」 かやうな御意で、娘はその時、 紅 ( くれなゐ )の 袙 ( あこめ )を御褒美に頂きました。 所がこの袙を又見やう見真似に、猿が恭しく押頂きましたので、大殿様の御機嫌は、 一入 ( ひとしほ )よろしかつたさうでございます。 でございますから、大殿様が良秀の娘を御 贔屓 ( ひいき )になつたのは、全くこの猿を可愛がつた、孝行恩愛の情を御賞美なすつたので、決して世間で兎や角申しますやうに、色を御好みになつた訳ではございません。 尤もかやうな噂の立ちました起りも、無理のない所がございますが、それは又後になつて、ゆつくり御話し致しませう。 こゝでは唯大殿様が、如何に美しいにした所で、絵師 風情 ( ふぜい )の娘などに、想ひを御懸けになる方ではないと云ふ事を、申し上げて置けば、よろしうございます。 さて良秀の娘は、面目を施して御前を下りましたが、元より悧巧な女でございますから、はしたない外の女房たちの 妬 ( ねたみ )を受けるやうな事もございません。 反つてそれ以来、猿と一しよに何かといとしがられまして、取分け御姫様の御側からは御離れ申した事がないと云つてもよろしい位、物見車の御供にもついぞ欠けた事はございませんでした。 が、娘の事は一先づ 措 ( お )きまして、これから又親の良秀の事を申し上げませう。 成程 ( なるほど )猿の方は、かやうに間もなく、皆のものに可愛がられるやうになりましたが、 肝腎 ( かんじん )の良秀はやはり誰にでも嫌はれて、 相不変 ( あひかはらず )陰へまはつては、猿秀 呼 ( よばは )りをされて居りました。 しかもそれが又、御邸の中ばかりではございません。 現に 横川 ( よがは )の僧都様も、良秀と申しますと、魔障にでも御遇ひになつたやうに、顔の色を変へて、御憎み遊ばしました。 (尤もこれは良秀が僧都様の御行状を 戯画 ( ざれゑ )に描いたからだなどと申しますが、何分 下 ( しも )ざまの噂でございますから、確に左様とは申されますまい。 )兎に角、あの男の不評判は、どちらの方に伺ひましても、さう云ふ調子ばかりでございます。 もし悪く云はないものがあつたと致しますと、それは二三人の絵師仲間か、或は又、あの男の絵を知つてゐるだけで、あの男の人間は知らないものばかりでございませう。 しかし実際、良秀には、見た所が卑しかつたばかりでなく、もつと人に嫌がられる悪い癖があつたのでございますから、それも全く自業自得とでもなすより外に、致し方はございません。 それも画道の上ばかりならまだしもでございますが、あの男の負け惜しみになりますと、世間の 習慣 ( ならはし )とか 慣例 ( しきたり )とか申すやうなものまで、すべて 莫迦 ( ばか )に致さずには置かないのでございます。 これは永年良秀の弟子になつてゐた男の話でございますが、或日さる方の御邸で名高い 檜垣 ( ひがき )の 巫女 ( みこ )に 御霊 ( ごりやう )が 憑 ( つ )いて、恐しい御託宣があつた時も、あの男は 空耳 ( そらみゝ )を走らせながら、有合せた筆と墨とで、その巫女の物凄い顔を、丁寧に写して居つたとか申しました。 大方御霊の 御祟 ( おたゝ )りも、あの男の眼から見ましたなら、子供欺し位にしか思はれないのでございませう。 さやうな男でございますから、吉祥天を描く時は、卑しい 傀儡 ( くぐつ )の顔を写しましたり、不動明王を描く時は、 無頼 ( ぶらい )の 放免 ( はうめん )の姿を 像 ( かたど )りましたり、いろ/\の 勿体 ( もつたい )ない真似を致しましたが、それでも当人を 詰 ( なじ )りますと「良秀の 描 ( か )いた神仏が、その良秀に 冥罰 ( みやうばつ )を当てられるとは、異な事を聞くものぢや」と 空嘯 ( そらうそぶ )いてゐるではございませんか。 これには流石の弟子たちも呆れ返つて、中には未来の恐ろしさに、匆々暇をとつたものも、少くなかつたやうに見うけました。 兎に角当時 天 ( あめ )が 下 ( した )で、自分程の偉い人間はないと思つてゐた男でございます。 従つて良秀がどの位画道でも、高く止つて居りましたかは、申し上げるまでもございますまい。 尤もその絵でさへ、あの男のは筆使ひでも彩色でも、まるで外の絵師とは違つて居りましたから、仲の悪い絵師仲間では、山師だなどと申す評判も、大分あつたやうでございます。 その連中の申しますには、 川成 ( かはなり )とか 金岡 ( かなをか )とか、その外昔の名匠の筆になつた物と申しますと、やれ板戸の梅の花が、月の夜毎に匂つたの、やれ屏風の 大宮人 ( おほみやびと )が、笛を吹く音さへ聞えたのと、優美な噂が立つてゐるものでございますが、良秀の絵になりますと、何時でも必ず気味の悪い、妙な評判だけしか伝はりません。 譬 ( たと )へばあの男が 龍蓋寺 ( りゆうがいじ )の門へ描きました、 五趣生死 ( ごしゆしやうじ )の絵に致しましても、 夜更 ( よふ )けて門の下を通りますと、天人の 嘆息 ( ためいき )をつく音や啜り泣きをする声が、聞えたと申す事でございます。 いや、中には死人の腐つて行く臭気を、嗅いだと申すものさへございました。 それから大殿様の御云ひつけで描いた、女房たちの 似絵 ( にせゑ )なども、その絵に写されたゞけの人間は、三年と 尽 ( た )たない中に、皆魂の抜けたやうな病気になって、死んだと申すではございませんか。 悪く云ふものに申させますと、それが良秀の絵の邪道に落ちてゐる、何よりの証拠ださうでございます。 が、何分前にも申し上げました通り、横紙破りな男でございますから、それが反つて良秀は大自慢で、何時ぞや大殿様が御冗談に、「その方は兎角醜いものが好きと見える。 」と仰有つた時も、あの年に似ず赤い唇でにやりと気味悪く笑ひながら、「さやうでござりまする。 かいなでの絵師には総じて醜いものゝ美しさなどと申す事は、わからう筈がございませぬ。 」と、横柄に御答へ申し上げました。 如何に本朝第一の絵師に致せ、よくも大殿様の御前へ出て、そのやうな高言が吐けたものでございます、先刻引合に出しました弟子が、内々師匠に「 智羅永寿 ( ちらえいじゆ )」と云ふ諢名をつけて、増長慢を 譏 ( そし )つて居りましたが、それも無理はございません。 御承知でもございませうが、「智羅永寿」と申しますのは、昔震旦から渡つて参りました天狗の名でございます。 と申しますのは、良秀が、あの一人娘の小女房をまるで気違ひのやうに可愛がつてゐた事でございます。 先刻申し上げました通り、娘も至つて気のやさしい、親思ひの女でございましたが、あの男の 子煩悩 ( こぼんなう )は、決してそれにも劣りますまい。 何しろ娘の着る物とか、髪飾とかの事と申しますと、どこの御寺の勧進にも喜捨をした事のないあの男が、金銭には更に惜し気もなく、整へてやると云ふのでございますから、嘘のやうな気が致すではございませんか。 が、良秀の娘を可愛がるのは、唯可愛がるだけで、やがてよい聟をとらうなどと申す事は、夢にも考へて居りません。 それ所か、あの娘へ悪く云ひ寄るものでもございましたら、反つて 辻冠者 ( つじくわんじや )ばらでも駆り集めて、 暗打 ( やみうち )位は喰はせ兼ねない量見でございます。 でございますから、あの娘が大殿様の御声がゝりで、小女房に上りました時も、 老爺 ( おやぢ )の方は大不服で、当座の間は御前へ出ても、苦り切つてばかり居りました。 大殿様が娘の美しいのに御心を惹かされて、親の不承知なのもかまはずに、召し上げたなどと申す噂は、大方かやうな容子を見たものゝ 当推量 ( あてずゐりやう )から出たのでございませう。 尤も其噂は嘘でございましても、子煩悩の一心から、良秀が始終娘の下るやうに祈つて居りましたのは確でございます。 或時大殿様の御云ひつけで、 稚児文殊 ( ちごもんじゆ )を描きました時も、御寵愛の 童 ( わらべ )の顔を写しまして、見事な出来でございましたから、大殿様も至極御満足で、 「褒美には望みの物を取らせるぞ。 遠慮なく望め。 」と云ふ難有い 御言 ( おことば )が下りました。 すると良秀は畏まつて、何を申すかと思ひますと、 「何卒私の娘をば御下げ下さいまするやうに。 」と臆面もなく申し上げました。 外のお邸ならば兎も角も、堀河の大殿様の御側に仕へてゐるのを、如何に可愛いからと申しまして、かやうに 無躾 ( ぶしつけ )に御暇を願ひますものが、どこの国に居りませう。 これには大腹中の大殿様も 聊 ( いさゝ )か御機嫌を損じたと見えまして、暫くは唯、黙つて良秀の顔を眺めて御居でになりましたが、やがて、 「それはならぬ。 」と 吐出 ( はきだ )すやうに仰有ると、急にその儘御立になつてしまひました。 かやうな事が、前後四五遍もございましたらうか。 今になつて考へて見ますと、大殿様の良秀を御覧になる眼は、その都度にだんだんと冷やかになつていらしつたやうでございます。 すると又、それにつけても、娘の方は父親の身が案じられるせゐでゞもございますか、曹司へ下つてゐる時などは、よく 袿 ( うちぎ )の袖を噛んで、しく/\泣いて居りました。 そこで大殿様が良秀の娘に 懸想 ( けさう )なすつたなどと申す噂が、愈々拡がるやうになつたのでございませう。 中には地獄変の屏風の由来も、実は娘が大殿様の御意に従はなかつたからだなどと申すものも居りますが、元よりさやうな事がある筈はございません。 私どもの眼から見ますと、大殿様が良秀の娘を御下げにならなかつたのは、全く娘の身の上を哀れに思召したからで、あのやうに 頑 ( かたくな )な親の側へやるよりは御邸に置いて、何の不自由なく暮させてやらうと云ふ難有い御考へだつたやうでございます。 それは元より気立ての優しいあの娘を、御贔屓になつたのには間違ひございません。 が、色を御好みになつたと申しますのは、恐らく 牽強附会 ( けんきやうふくわい )の説でございませう。 いや、跡方もない嘘と申した方が、宜しい位でございます。 それは兎も角もと致しまして、かやうに娘の事から良秀の御覚えが大分悪くなつて来た時でございます。 どう思召したか、大殿様は突然良秀を御召になつて、地獄変の屏風を描くやうにと、御云ひつけなさいました。 地獄変の屏風と申しますと、私はもうあの恐ろしい画面の景色が、ありありと眼の前へ浮んで来るやうな気が致します。 同じ地獄変と申しましても、良秀の描きましたのは、外の絵師のに比べますと、第一図取りから似て居りません。 それは一帖の屏風の片隅へ、小さく十王を始め 眷属 ( けんぞく )たちの姿を描いて、あとは一面に 紅蓮 ( ぐれん ) 大紅蓮 ( だいぐれん )の猛火が剣山刀樹も 爛 ( たゞ )れるかと思ふ程渦を巻いて居りました。 でございますから、 唐 ( から )めいた 冥官 ( めうくわん )たちの衣裳が、点々と黄や藍を綴つて居ります外は、どこを見ても烈々とした火焔の色で、その中をまるで卍のやうに、墨を飛ばした黒煙と金粉を煽つた火の粉とが、舞ひ狂つて居るのでございます。 こればかりでも、随分人の目を驚かす筆勢でございますが、その上に又、 業火 ( ごふくわ )に焼かれて、転々と苦しんで居ります罪人も、殆ど一人として通例の地獄絵にあるものはございません。 何故 ( なぜ )かと申しますと良秀は、この多くの罪人の中に、上は 月卿雲客 ( げつけいうんかく )から下は乞食非人まで、あらゆる身分の人間を写して来たからでございます。 兎に角さう云ふいろ/\の人間が、火と煙とが逆捲く中を、 牛頭 ( ごづ ) 馬頭 ( めづ )の獄卒に 虐 ( さいな )まれて、大風に吹き散らされる落葉のやうに、紛々と四方八方へ逃げ迷つてゐるのでございます。 鋼叉 ( さすまた )に髪をからまれて、蜘蛛よりも手足を縮めてゐる女は、 神巫 ( かんなぎ )の 類 ( たぐひ )でゞもございませうか。 手矛 ( てほこ )に胸を刺し通されて、 蝙蝠 ( かはほり )のやうに逆になつた男は、 生受領 ( なまずりやう )か何かに相違ございますまい。 が、その中でも殊に一つ目立つて 凄 ( すさま )じく見えるのは、まるで 獣 ( けもの )の牙のやうな刀樹の頂きを半ばかすめて(その刀樹の梢にも、多くの亡者が 々 ( るゐ/\ )と、五体を 貫 ( つらぬ )かれて居りましたが) 中空 ( なかぞら )から落ちて来る一輛の牛車でございませう。 地獄の風に吹き上げられた、その車の 簾 ( すだれ )の中には、女御、更衣にもまがふばかり、 綺羅 ( きら )びやかに装つた女房が、丈の黒髪を炎の中になびかせて、白い 頸 ( うなじ )を 反 ( そ )らせながら、悶え苦しんで居りますが、その女房の姿と申し、又燃えしきつてゐる牛車と申し、何一つとして炎熱地獄の責苦を 偲 ( しの )ばせないものはございません。 云はゞ広い画面の恐ろしさが、この一人の人物に 輳 ( あつま )つてゐるとでも申しませうか。 これを見るものゝ耳の底には、自然と物凄い叫喚の声が伝はつて来るかと疑ふ程、入神の出来映えでございました。 あゝ、これでございます、これを描く為めに、あの恐ろしい出来事が起つたのでございます。 又さもなければ如何に良秀でも、どうしてかやうに生々と奈落の 苦艱 ( くげん )が画かれませう。 あの男はこの屏風の絵を仕上げた代りに、命さへも捨てるやうな、無惨な目に出遇ひました。 云はゞこの絵の地獄は、本朝第一の絵師良秀が、自分で何時か墜ちて行く地獄だつたのでございます。 …… 私はあの珍しい地獄変の屏風の事を申上げますのを急いだあまりに、或は御話の順序を顛倒致したかも知れません。 が、これからは又引き続いて、大殿様から地獄絵を描けと申す仰せを受けた良秀の事に移りませう。 良秀はそれから五六箇月の間、まるで御邸へも伺はないで、屏風の絵にばかりかゝつて居りました。 あれ程の子煩悩がいざ絵を描くと云ふ段になりますと、娘の顔を見る気もなくなると申すのでございますから、不思議なものではございませんか。 先刻申し上げました弟子の話では、何でもあの男は仕事にとりかゝりますと、まるで狐でも 憑 ( つ )いたやうになるらしうございます。 いや実際当時の風評に、良秀が画道で名を成したのは、福徳の 大神 ( おほかみ )に 祈誓 ( きせい )をかけたからで、その証拠にはあの男が絵を描いてゐる所を、そつと 物陰 ( ものかげ )から覗いて見ると、必ず陰々として霊狐の姿が、一匹ならず前後左右に、群つてゐるのが見えるなどと申す者もございました。 その位でございますから、いざ画筆を取るとなると、その絵を描き上げると云ふより外は、何も彼も忘れてしまふのでございませう。 昼も夜も一間に閉ぢこもつたきりで、滅多に日の目も見た事はございません。 それ位の変つた事なら、別にあの地獄変の屏風を描かなくとも、仕事にかゝつてゐる時とさへ申しますと、何時でもやり兼ねない男なのでございます。 いや、現に 龍蓋寺 ( りゆうがいじ )の 五趣生死 ( ごしゆしやうじ )の図を描きました時などは、当り前の人間なら、わざと眼を 外 ( そ )らせて行くあの往来の屍骸の前へ、悠々と腰を下して、半ば腐れかかつた顔や手足を、髪の毛一すぢも違へずに、写して参つた事がございました。 では、その甚しい夢中になり方とは、一体どう云ふ事を申すのか、流石に御わかりにならない方もいらつしやいませう。 それは唯今詳しい事は申し上げてゐる暇もございませんが、主な話を御耳に入れますと、大体 先 ( まづ )かやうな次第なのでございます。 良秀の弟子の一人が(これもやはり、前に申した男でございますが)或日絵の具を溶いて居りますと、急に師匠が参りまして、 「己は少し 午睡 ( ひるね )をしようと思ふ。 がどうもこの頃は夢見が悪い。 」とかう申すのでございます。 別にこれは珍しい事でも何でもございませんから、弟子は手を休めずに、唯、 「さやうでございますか。 」と一通りの挨拶を致しました。 所が、良秀は、何時になく寂しさうな顔をして、 「就いては、己が午睡をしてゐる間中、枕もとに坐つてゐて貰ひたいのだが。 」と、遠慮がましく頼むではございませんか。 弟子は何時になく、師匠が夢なぞを気にするのは、不思議だと思ひましたが、それも別に造作のない事でございますから、 「よろしうございます。 」と申しますと、師匠はまだ心配さうに、 「では直に奥へ来てくれ。 尤も後で外の弟子が来ても、己の睡つてゐる所へは入れないやうに。 」と、ためらひながら云ひつけました。 奥と申しますのは、あの男が画を描きます部屋で、その日も夜のやうに戸を立て切つた中に、ぼんやりと灯をともしながら、まだ 焼筆 ( やきふで )で図取りだけしか出来てゐない屏風が、ぐるりと立て廻してあつたさうでございます。 さてこゝへ参りますと、良秀は肘を枕にして、まるで疲れ切つた人間のやうに、すや/\、睡入つてしまひましたが、ものゝ半時とたちません中に、枕もとに居ります弟子の耳には、何とも彼とも申しやうのない、気味の悪い声がはいり始めました。 「なに、己に来いと云ふのだな。 炎熱地獄へ来い。 さう云ふ貴様は。 さうしてその口の中で、何か糸でもつけて引張つてゐるかと疑ふ程、目まぐるしく動くものがあると思ひますと、それがあの男の舌だつたと申すではございませんか。 切れ切れな語は元より、その舌から出て来るのでございます。 己も貴様だらうと思つてゐた。 なに、迎へに来たと? だから来い。 奈落へ来い。 」 その時、弟子の眼には、朦朧とした 異形 ( いぎやう )の影が、屏風の 面 ( おもて )をかすめてむらむらと下りて来るやうに見えた程、気味の悪い心もちが致したさうでございます。 勿論弟子はすぐに良秀に手をかけて、力のあらん限り揺り起しましたが、師匠は猶 夢現 ( ゆめうつゝ )に 独 ( ひと )り 語 ( ごと )を云ひつゞけて、容易に眼のさめる気色はございません。 そこで弟子は思ひ切つて、側にあつた筆洗の水を、ざぶりとあの男の顔へ浴びせかけました。 暫くは唯恐ろしさうな眼つきをして、やはり大きく口を開きながら、空を見つめて居りましたが、やがて我に返つた容子で、 「もう好いから、あちらへ行つてくれ」と、今度は如何にも 素 ( そ )つ 気 ( け )なく、云ひつけるのでございます。 弟子はかう云ふ時に逆ふと、何時でも 大小言 ( おほこごと )を云はれるので、匆々師匠の部屋から出て参りましたが、まだ明い外の日の光を見た時には、まるで自分が悪夢から覚めた様な、ほつとした気が致したとか申して居りました。 しかしこれなぞはまだよい方なので、その後一月ばかりたつてから、今度は又別の弟子が、わざわざ奥へ呼ばれますと、良秀はやはりうす暗い油火の光りの中で、絵筆を噛んで居りましたが、いきなり弟子の方へ向き直つて、 「御苦労だが、又裸になつて貰はうか。 」と申すのでございます。 これはその時までにも、どうかすると師匠が云ひつけた事でございますから、弟子は早速衣類をぬぎすてて、 赤裸 ( あかはだか )になりますと、あの男は妙に顔をしかめながら、 「わしは 鎖 ( くさり )で縛られた人間が見たいと思ふのだが、気の毒でも暫くの間、わしのする通りになつてゐてはくれまいか。 」と、その癖少しも気の毒らしい容子などは見せずに、冷然とかう申しました。 元来この弟子は画筆などを握るよりも、太刀でも持つた方が好ささうな、逞しい若者でございましたが、これには流石に驚いたと見えて、後々までもその時の話を致しますと、「これは師匠が気が違つて、私を殺すのではないかと思ひました」と繰返して申したさうでございます。 が、良秀の方では、相手の愚図々々してゐるのが、 燥 ( じれ )つたくなつて参つたのでございませう。 どこから出したか、細い鉄の鎖をざら/\と 手繰 ( たぐ )りながら、殆ど飛びつくやうな勢ひで、弟子の背中へ乗りかかりますと、否応なしにその儘両腕を捻ぢあげて、ぐる/\巻きに致してしまひました。 さうして又その鎖の端を 邪慳 ( じやけん )にぐいと引きましたからたまりません。 弟子の体ははづみを食つて、勢よく 床 ( ゆか )を鳴らしながら、ごろりとそこへ横倒しに倒れてしまつたのでございます。 その時の弟子の 恰好 ( かつかう )は、まるで酒甕を転がしたやうだとでも申しませうか。 何しろ手も足も 惨 ( むご )たらしく折り曲げられて居りますから、動くのは唯首ばかりでございます。 そこへ肥つた体中の血が、鎖に 循環 ( めぐり )を止められたので、顔と云はず胴と云はず、一面に皮膚の色が赤み走つて参るではございませんか。 が、良秀にはそれも格別気にならないと見えまして、その酒甕のやうな体のまはりを、あちこちと廻つて眺めながら、同じやうな写真の図を何枚となく描いて居ります。 その間、縛られてゐる弟子の身が、どの位苦しかつたかと云ふ事は、何もわざ/\取り立てゝ申し上げるまでもございますまい。 が、もし何事も起らなかつたと致しましたら、この苦しみは恐らくまだその上にも、つゞけられた事でございませう。 幸(と申しますより、或は不幸にと申した方がよろしいかも知れません。 )暫く致しますと、部屋の隅にある壺の蔭から、まるで黒い油のやうなものが、一すぢ細くうねりながら、流れ出して参りました。 」と 喚 ( わめ )きました。 その時は全く体中の血が一時に凍るかと思つたと申しますが、それも無理はございません。 蛇は実際もう少しで、鎖の食ひこんでゐる、頸の肉へその冷い舌の先を触れようとしてゐたのでございます。 この思ひもよらない出来事には、いくら横道な良秀でも、ぎよつと致したのでございませう。 慌てて画筆を投げ棄てながら、咄嗟に身をかがめたと思ふと、素早く蛇の尾をつかまへて、ぶらりと逆に吊り下げました。 蛇は吊り下げられながらも、頭を上げて、きり/\と自分の体へ巻つきましたが、どうしてもあの男の手の所まではとどきません。 「おのれ故に、あつたら 一筆 ( ひとふで )を 仕損 ( しそん )じたぞ。 」 良秀は忌々しさうにかう呟くと、蛇はその儘部屋の隅の壺の中へ抛りこんで、それからさも 不承無承 ( ふしようぶしよう )に、弟子の体へかゝつてゐる鎖を解いてくれました。 それも唯解いてくれたと云ふ丈で、肝腎の弟子の方へは、優しい言葉一つかけてはやりません。 大方弟子が蛇に噛まれるよりも、写真の一筆を誤つたのが、 業腹 ( ごふはら )だつたのでございませう。 これだけの事を御聞きになつたのでも、良秀の気違ひじみた、薄気味の悪い夢中になり方が、 略 ( ほゞ )御わかりになつた事でございませう。 所が最後に一つ、今度はまだ十三四の弟子が、やはり地獄変の屏風の御かげで、云はゞ命にも 関 ( かゝ )はり 兼 ( か )ねない、恐ろしい目に出遇ひました。 その弟子は生れつき色の白い女のやうな男でございましたが、或夜の事、何気なく師匠の部屋へ呼ばれて参りますと、良秀は燈台の火の下で 掌 ( てのひら )に何やら 腥 ( なまぐさ )い肉をのせながら、見慣れない一羽の鳥を養つてゐるのでございます。 大きさは 先 ( まづ )、世の常の猫ほどもございませうか。 さう云へば、耳のやうに両方へつき出た羽毛と云ひ、 琥珀 ( こはく )のやうな色をした、大きな円い 眼 ( まなこ )と云ひ、見た所も何となく猫に似て居りました。 元来良秀と云ふ男は、何でも自分のしてゐる事に 嘴 ( くちばし )を入れられるのが大嫌ひで、先刻申し上げた蛇などもさうでございますが、自分の部屋の中に何があるか、一切さう云ふ事は弟子たちにも知らせた事がございません。 でございますから、或時は机の上に 髑髏 ( されかうべ )がのつてゐたり、或時は又、 銀 ( しろがね )の椀や蒔絵の 高坏 ( たかつき )が並んでゐたり、その時描いてゐる画次第で、随分思ひもよらない物が出て居りました。 が、ふだんはかやうな品を、一体どこにしまつて置くのか、それは又誰にもわからなかつたさうでございます。 あの男が福徳の大神の冥助を受けてゐるなどゝ申す噂も、一つは確にさう云ふ事が起りになつてゐたのでございませう。 そこで弟子は、机の上のその異様な鳥も、やはり地獄変の屏風を描くのに入用なのに違ひないと、かう独り考へながら、師匠の前へ 畏 ( かしこ )まつて、「何か御用でございますか」と、恭々しく申しますと、良秀はまるでそれが聞えないやうに、あの赤い唇へ舌なめずりをして、 「どうだ。 よく馴れてゐるではないか。 」と、鳥の方へ 頤 ( あご )をやります。 「これは何と云ふものでございませう。 私はついぞまだ、見た事がございませんが。 」 弟子はかう申しながら、この耳のある、猫のやうな鳥を、気味悪さうにじろじろ眺めますと、良秀は 不相変 ( あひかはらず )何時もの 嘲笑 ( あざわら )ふやうな調子で、 「なに、見た事がない? 都育ちの人間はそれだから困る。 これは二三日前に鞍馬の猟師がわしにくれた 耳木兎 ( みゝづく )と云ふ鳥だ。 唯、こんなに馴れてゐるのは、沢山あるまい。 」 かう云ひながらあの男は、 徐 ( おもむろ )に手をあげて、丁度餌を食べてしまつた耳木兎の背中の毛を、そつと下から撫で上げました。 するとその途端でございます。 鳥は急に鋭い声で、短く一声啼いたと思ふと、忽ち机の上から飛び上つて、両脚の爪を張りながら、いきなり弟子の顔へとびかゝりました。 もしその時、弟子が袖をかざして、慌てゝ顔を隠さなかつたなら、きつともう 疵 ( きず )の一つや二つは負はされて居りましたらう。 怪鳥 ( けてう )も元よりそれにつれて、高く低く 翔 ( かけ )りながら、隙さへあれば 驀地 ( まつしぐら )に眼を目がけて飛んで来ます。 その度にばさ/\と、凄じく翼を鳴すのが、落葉の匂だか、滝の 水沫 ( しぶき )とも或は又猿酒の 饐 ( す )ゑたいきれだか何やら怪しげなものゝけはひを誘つて、気味の悪さと云つたらございません。 さう云へばその弟子も、うす暗い油火の光さへ 朧 ( おぼろ )げな月明りかと思はれて、師匠の部屋がその儘遠い山奥の、妖気に閉された谷のやうな、心細い気がしたとか申したさうでございます。 しかし弟子が恐しかつたのは、何も耳木兎に襲はれると云ふ、その事ばかりではございません。 いや、それよりも一層身の毛がよだつたのは、師匠の良秀がその騒ぎを冷然と眺めながら、徐に紙を 展 ( の )べ筆を 舐 ( ねぶ )つて、女のやうな少年が異形な鳥に 虐 ( さいな )まれる、物凄い有様を写してゐた事でございます。 弟子は一目それを見ますと、忽ち云ひやうのない恐ろしさに 脅 ( おびや )かされて、実際一時は師匠の為に、殺されるのではないかとさへ、思つたと申して居りました。 実際師匠に殺されると云ふ事も、全くないとは申されません。 現にその晩わざわざ弟子を呼びよせたのでさへ、実は耳木兎を 唆 ( けし )かけて、弟子の逃げまはる有様を写さうと云ふ魂胆らしかつたのでございます。 でございますから、弟子は、師匠の容子を一目見るが早いか、思はず両袖に頭を隠しながら、自分にも何と云つたかわからないやうな悲鳴をあげて、その儘部屋の隅の 遣戸 ( やりど )の裾へ、居すくまつてしまひました。 とその拍子に、良秀も何やら慌てたやうな声をあげて、立上つた気色でございましたが、忽ち耳木兎の羽音が一層前よりもはげしくなつて、物の倒れる音や破れる音が、けたゝましく聞えるではございませんか。 これには弟子も二度、度を失つて、思はず隠してゐた頭を上げて見ますと、部屋の中は何時かまつ暗になつてゐて、師匠の弟子たちを呼び立てる声が、その中で苛立しさうにして居ります。 やがて弟子の一人が、遠くの方で返事をして、それから灯をかざしながら、急いでやつて参りましたが、その 煤臭 ( すゝくさ )い 明 ( あか )りで眺めますと、 結燈台 ( ゆひとうだい )が倒れたので、床も畳も一面に油だらけになつた所へ、さつきの耳木兎が片方の翼ばかり、苦しさうにはためかしながら、転げまはつてゐるのでございます。 良秀は机の向うで半ば体を起した儘、流石に 呆気 ( あつけ )にとられたやうな顔をして、何やら人にはわからない事を、ぶつ/\呟いて居りました。 あの耳木兎の体には、まつ黒な蛇が一匹、頸から片方の翼へかけて、きりきりと捲きついてゐるのでございます。 大方これは弟子が居すくまる拍子に、そこにあつた壺をひつくり返して、その中の蛇が這ひ出したのを、耳木兎がなまじひに掴みかゝらうとしたばかりに、とう/\かう云ふ大騒ぎが始まつたのでございませう。 二人の弟子は互に眼と眼とを見合せて、暫くは唯、この不思議な光景をぼんやり眺めて居りましたが、やがて師匠に黙礼をして、こそ/\部屋へ引き下つてしまひました。 蛇と耳木兎とがその後どうなつたか、それは誰も知つてゐるものはございません。 前には申し落しましたが、地獄変の屏風を描けと云ふ御沙汰があつたのは、秋の初でございますから、それ以来冬の末まで、良秀の弟子たちは、絶えず師匠の怪しげな振舞に 脅 ( おびや )かされてゐた訳でございます。 が、その冬の末に良秀は何か屏風の画で、自由にならない事が出来たのでございませう、それまでよりは、一層容子も陰気になり、物云ひも目に見えて、荒々しくなつて参りました。 と同時に又屏風の画も、下画が八分通り出来上つた儘、更に 捗 ( はか )どる模様はございません。 いや、どうかすると今までに描いた所さへ、塗り消してもしまひ兼ねない気色なのでございます。 その癖、屏風の何が自由にならないのだか、それは誰にもわかりません。 又、誰もわからうとしたものもございますまい。 前のいろ/\な出来事に懲りてゐる弟子たちは、まるで虎狼と一つ 檻 ( をり )にでもゐるやうな心もちで、その後師匠の身のまはりへは、成る可く近づかない算段をして居りましたから。 従つてその間の事に就いては、別に取り立てゝ申し上げる程の御話もございません。 もし強ひて申し上げると致しましたら、それはあの強情な 老爺 ( おやぢ )が、 何故 ( なぜ )か妙に涙 脆 ( もろ )くなつて、人のゐない所では時々独りで泣いてゐたと云ふ御話位なものでございませう。 殊に或日、何かの用で弟子の一人が、庭先へ参りました時なぞは廊下に立つてぼんやり春の近い空を眺めてゐる師匠の眼が、涙で一ぱいになつてゐたさうでございます。 弟子はそれを見ますと、反つてこちらが恥しいやうな気がしたので、黙つてこそ/\引き返したと申す事でございますが、 五趣生死 ( ごしゆしやうじ )の図を描く為には、道ばたの屍骸さへ写したと云ふ、傲慢なあの男が、屏風の画が思ふやうに描けない位の事で、子供らしく泣き出すなどと申すのは、随分異なものでございませんか。 所が一方良秀がこのやうに、まるで正気の人間とは思はれない程夢中になつて、屏風の絵を描いて居ります中に、又一方ではあの娘が、何故かだん/\気鬱になつて、私どもにさへ涙を堪へてゐる容子が、眼に立つて参りました。 それが元来 愁顔 ( うれひがほ )の、色の白い、つゝましやかな女だけに、かうなると何だか 睫毛 ( まつげ )が重くなつて、眼のまはりに 隈 ( くま )がかゝつたやうな、余計寂しい気が致すのでございます。 初はやれ父思ひのせゐだの、やれ恋煩ひをしてゐるからだの、いろ/\臆測を致したものがございますが、中頃から、なにあれは大殿様が御意に従はせようとしていらつしやるのだと云ふ評判が立ち始めて、 夫 ( それ )からは誰も忘れた様に、ぱつたりあの娘の噂をしなくなつて了ひました。 丁度その頃の事でございませう。 或夜、 更 ( かう )が 闌 ( た )けてから、私が独り御廊下を通りかゝりますと、あの猿の良秀がいきなりどこからか飛んで参りまして、私の袴の裾を頻りにひつぱるのでございます、確、もう梅の匂でも致しさうな、うすい月の光のさしてゐる、暖い夜でございましたが、其明りですかして見ますと、猿はまつ白な歯をむき出しながら、鼻の先へ皺をよせて、気が違はないばかりにけたゝましく啼き立てゝゐるではございませんか。 私は気味の悪いのが三分と、新しい袴をひつぱられる腹立たしさが七分とで、最初は猿を蹴放して、その儘通りすぎようかとも思ひましたが、又思ひ返して見ますと、前にこの猿を折檻して、若殿様の御不興を受けた 侍 ( さむらひ )の例もございます。 それに猿の振舞が、どうも唯事とは思はれません。 そこでとう/\私も思ひ切つて、そのひつぱる方へ五六間歩くともなく歩いて参りました。 どこか近くの部屋の中で人の争つてゐるらしいけはひが、 慌 ( あわたゞ )しく、又妙にひつそりと私の耳を脅しました。 あたりはどこも 森 ( しん )と静まり返つて、月明りとも 靄 ( もや )ともつかないものゝ中で、魚の跳る音がする外は、話し声一つ聞えません。 そこへこの物音でございますから。 私は思はず立止つて、もし 狼藉者 ( らうぜきもの )でゞもあつたなら、目にもの見せてくれようと、そつとその遣戸の外へ、息をひそめながら身をよせました。 所が猿は私のやり方がまだるかつたのでございませう。 良秀はさもさももどかしさうに、二三度私の足のまはりを駈けまはつたと思ひますと、まるで 咽 ( のど )を絞められたやうな声で啼きながら、いきなり私の肩のあたりへ一足飛に飛び上りました。 かうなつてはもう一刻も躊躇してゐる場合ではございません。 私は矢庭に遣り戸を開け放して、月明りのとどかない奥の方へ跳りこまうと致しました。 女は出合頭に危く私に衝き当らうとして、その儘外へ転び出ましたが、 何故 ( なぜ )かそこへ膝をついて、息を切らしながら私の顔を、何か恐ろしいものでも見るやうに、 戦 ( をのゝ )き/\見上げてゐるのでございます。 それが良秀の娘だつたことは、何もわざ/\申し上げるまでもございますまい。 が、その晩のあの女は、まるで人間が違つたやうに、 生々 ( いき/\ )と私の眼に映りました。 眼は大きくかゞやいて居ります。 頬も赤く燃えて居りましたらう。 そこへしどけなく乱れた袴や 袿 ( うちぎ )が、何時もの幼さとは打つて変つた 艶 ( なまめか )しささへも添へてをります。 これが実際あの弱々しい、何事にも控へ目勝な良秀の娘でございませうか。 すると娘は唇を噛みながら、黙つて首をふりました。 その容子が如何にも亦、 口惜 ( くや )しさうなのでございます。 そこで私は身をかゞめながら、娘の耳へ口をつけるやうにして、今度は「誰です」と小声で尋ねました。 が、娘はやはり首を振つたばかりで、何とも返事を致しません。 いや、それと同時に長い 睫毛 ( まつげ )の先へ、涙を一ぱいためながら、前よりも 緊 ( かた )く唇を噛みしめてゐるのでございます。 性得 ( しやうとく ) 愚 ( おろか )な私には、分りすぎてゐる程分つてゐる事の外は、 生憎 ( あいにく )何一つ呑みこめません。 でございますから、私は 言 ( ことば )のかけやうも知らないで、暫くは唯、娘の胸の動悸に耳を澄ませるやうな心もちで、ぢつとそこに立ちすくんで居りました。 尤もこれは一つには、何故かこの上問ひ 訊 ( たゞ )すのが悪いやうな、気咎めが致したからでもございます。 が、やがて明け放した遣り戸を閉しながら少しは上気の 褪 ( さ )めたらしい娘の方を見返つて、「もう曹司へ御帰りなさい」と出来る丈やさしく申しました。 さうして私も自分ながら、何か見てはならないものを見たやうな、不安な心もちに脅されて、誰にともなく恥しい思ひをしながら、そつと元来た方へ歩き出しました。 所が十歩と歩かない中に、誰か又私の袴の裾を、後から恐る/\、引き止めるではございませんか。 私は驚いて、振り向きました。 あなた方はそれが何だつたと思召します? 見るとそれは私の足もとにあの猿の良秀が、人間のやうに両手をついて、黄金の鈴を鳴しながら、何度となく丁寧に頭を下げてゐるのでございました。 するとその晩の出来事があつてから、半月ばかり後の事でございます。 或日良秀は突然御邸へ参りまして、大殿様へ 直 ( ぢき )の御眼通りを願ひました。 卑しい身分のものでございますが、日頃から格別御意に入つてゐたからでございませう。 誰にでも容易に御会ひになつた事のない大殿様が、その日も快く御承知になつて、早速御前近くへ御召しになりました。 」 「それは目出度い。 予も満足ぢや。 」 しかしかう 仰有 ( おつしや )る大殿様の御声には、 何故 ( なぜ )か妙に力の無い、張合のぬけた所がございました。 「いえ、それが一向目出度くはござりませぬ。 」良秀は、稍腹立しさうな容子で、ぢつと眼を伏せながら、「あらましは出来上りましたが、唯一つ、今以て私には描けぬ所がございまする。 」 「なに、描けぬ所がある?」 「さやうでございまする。 私は総じて、見たものでなければ描けませぬ。 よし描けても、得心が参りませぬ。 それでは描けぬも同じ事でございませぬか。 」 これを御聞きになると、大殿様の御顔には、嘲るやうな御微笑が浮びました。 「では地獄変の屏風を描かうとすれば、地獄を見なければなるまいな。 」 「さやうでござりまする。 が、私は先年大火事がございました時に、炎熱地獄の 猛火 ( まうくわ )にもまがふ火の手を、眼のあたりに眺めました。 「よぢり不動」の火焔を描きましたのも、実はあの火事に遇つたからでございまする。 御前もあの絵は御承知でございませう。 」 「しかし罪人はどうぢや。 獄卒は見た事があるまいな。 」大殿様はまるで良秀の申す事が御耳にはいらなかつたやうな御容子で、かう畳みかけて御尋ねになりました。 「私は 鉄 ( くろがね )の 鎖 ( くさり )に 縛 ( いましめ )られたものを見た事がございまする。 怪鳥に悩まされるものゝ姿も、 具 ( つぶさ )に写しとりました。 されば罪人の 呵責 ( かしやく )に苦しむ様も知らぬと申されませぬ。 或は 牛頭 ( ごづ )、或は 馬頭 ( めづ )、或は 三面六臂 ( さんめんろつぴ )の鬼の形が、音のせぬ手を拍き、声の出ぬ口を開いて、私を 虐 ( さいな )みに参りますのは、殆ど毎日毎夜のことと申してもよろしうございませう。 」 それには大殿様も、流石に御驚きになつたでございませう。 暫くは唯 苛立 ( いらだ )たしさうに、良秀の顔を睨めて御出になりましたが、やがて眉を険しく御動かしになりながら、 「では何が描けぬと申すのぢや。 」と打捨るやうに仰有いました。 「私は屏風の唯中に、 檳榔毛 ( びらうげ )の車が一輛空から落ちて来る所を描かうと思つて居りまする。 」良秀はかう云つて、始めて鋭く大殿様の御顔を眺めました。 あの男は画の事と云ふと、気違ひ同様になるとは聞いて居りましたが、その時の眼のくばりには確にさやうな恐ろしさがあつたやうでございます。 「その車の中には、一人のあでやかな上 が、猛火の中に黒髪を乱しながら、悶え苦しんでゐるのでございまする。 顔は煙に 烟 ( むせ )びながら、眉を 顰 ( ひそ )めて、空ざまに 車蓋 ( やかた )を仰いで居りませう。 手は 下簾 ( したすだれ )を引きちぎつて、降りかゝる火の粉の雨を防がうとしてゐるかも知れませぬ。 さうしてそのまはりには、怪しげな鷙鳥が十羽となく、二十羽となく、 嘴 ( くちばし )を鳴らして紛々と飛び 繞 ( めぐ )つてゐるのでございまする。 」 大殿様はどう云ふ訳か、妙に悦ばしさうな御気色で、かう良秀を御促しになりました。 が、良秀は例の赤い唇を熱でも出た時のやうに震はせながら、夢を見てゐるのかと思ふ調子で、 「それが私には描けませぬ。 」と、もう一度繰返しましたが、突然噛みつくやうな勢ひになつて、 「どうか檳榔毛の車を一輛、私の見てゐる前で、火をかけて頂きたうございまする。 さうしてその御笑ひ声に息をつまらせながら、仰有いますには、 「おゝ、万事その方が申す通りに致して遣はさう。 出来る出来ぬの詮議は 無益 ( むやく )の沙汰ぢや。 」 私はその御言を伺ひますと、虫の知らせか、何となく凄じい気が致しました。 実際又大殿様の御容子も、御口の端には白く泡がたまつて居りますし、御眉のあたりにはびく/\と 電 ( いなづま )が走つて居りますし、まるで良秀のもの狂ひに御染みなすつたのかと思ふ程、唯ならなかつたのでございます。 それがちよいと言を御切りになると、すぐ又何かが 爆 ( は )ぜたやうな勢ひで、止め度なく喉を鳴らして御笑ひになりながら、 「檳榔毛の車にも火をかけよう。 又その中にはあでやかな女を一人、上 の 装 ( よそほひ )をさせて乗せて遣はさう。 褒めてとらす。 おゝ、褒めてとらすぞ。 」 大殿様の御言葉を聞きますと、良秀は急に色を失つて 喘 ( あへ )ぐやうに唯、唇ばかり動して居りましたが、やがて体中の筋が緩んだやうに、べたりと畳へ両手をつくと、 「難有い仕合でございまする。 」と、聞えるか聞えないかわからない程低い声で、丁寧に御礼を申し上げました。 これは大方自分の考へてゐた目ろみの恐ろしさが、大殿様の御言葉につれてあり/\と目の前へ浮んで来たからでございませうか。 私は一生の中に唯一度、この時だけは良秀が、気の毒な人間に思はれました。 それから二三日した夜の事でございます。 大殿様は御約束通り、良秀を御召しになつて、檳榔毛の車の焼ける所を、目近く見せて御やりになりました。 尤もこれは堀河の御邸であつた事ではございません。 俗に 雪解 ( ゆきげ )の御所と云ふ、昔大殿様の妹君がいらしつた洛外の山荘で、御焼きになつたのでございます。 この雪解の御所と申しますのは、久しくどなたも御住ひにはならなかつた所で、広い御庭も荒れ放題荒れ果てて居りましたが、大方この人気のない御容子を拝見した者の当推量でございませう。 こゝで 御歿 ( おな )くなりになつた妹君の御身の上にも、兎角の噂が立ちまして、中には又月のない夜毎々々に、今でも怪しい 御袴 ( おんはかま )の緋の色が、地にもつかず御廊下を歩むなどと云ふ取沙汰を致すものもございました。 昼でさへ寂しいこの御所は、一度日が暮れたとなりますと、 遣 ( や )り 水 ( みづ )の音が 一際 ( ひときは )陰に響いて、星明りに飛ぶ五位鷺も、 怪形 ( けぎやう )の物かと思ふ程、気味が悪いのでございますから。 丁度その夜はやはり月のない、まつ暗な晩でございましたが、 大殿油 ( おほとのあぶら )の灯影で眺めますと、縁に近く座を御占めになつた大殿様は、浅黄の 直衣 ( なほし )に濃い紫の浮紋の 指貫 ( さしぬき )を御召しになつて、白地の錦の縁をとつた 円座 ( わらふだ )に、高々とあぐらを組んでいらつしやいました。 その前後左右に御側の者どもが五六人、恭しく居並んで居りましたのは、別に取り立てて申し上げるまでもございますまい。 が、中に一人、眼だつて事ありげに見えたのは、先年 陸奥 ( みちのく )の戦ひに餓ゑて人の肉を食つて以来、鹿の 生角 ( いきづの )さへ裂くやうになつたと云ふ 強力 ( がうりき )の侍が、下に腹巻を着こんだ容子で、太刀を 鴎尻 ( かもめじり )に 佩 ( は )き 反 ( そ )らせながら、御縁の下に 厳 ( いかめ )しくつくばつてゐた事でございます。 その上に又、御庭に引き据ゑた檳榔毛の車が、高い 車蓋 ( やかた )にのつしりと 暗 ( やみ )を抑へて、牛はつけず黒い 轅 ( ながえ )を斜に 榻 ( しぢ )へかけながら、 金物 ( かなもの )の 黄金 ( きん )を星のやうに、ちらちら光らせてゐるのを眺めますと、春とは云ふものゝ何となく肌寒い気が致します。 尤もその車の内は、浮線綾の 縁 ( ふち )をとつた青い簾が、重く封じこめて居りますから、 ( はこ )には何がはいつてゐるか判りません。 さうしてそのまはりには仕丁たちが、手ん手に燃えさかる 松明 ( まつ )を執つて、煙が御縁の方へ靡くのを気にしながら、 仔細 ( しさい )らしく控へて居ります。 当の良秀は 稍 ( やゝ )離れて、丁度御縁の真向に、 跪 ( ひざまづ )いて居りましたが、これは何時もの香染めらしい狩衣に 萎 ( な )えた揉烏帽子を頂いて、星空の重みに圧されたかと思ふ位、何時もよりは猶小さく、見すぼらしげに見えました。 その後に又一人、同じやうな烏帽子狩衣の 蹲 ( うづくま )つたのは、多分召し連れた弟子の一人ででもございませうか。 それが丁度二人とも、遠いうす暗がりの中に蹲つて居りますので、私のゐた御縁の下からは、狩衣の色さへ定かにはわかりません。 時刻は彼是真夜中にも近かつたでございませう。 林泉をつゝんだ暗がひつそりと声を呑んで、一同のする息を窺つてゐると思ふ中には、唯かすかな夜風の渡る音がして、松明の煙がその度に煤臭い匂を送つて参ります。 大殿様は暫く黙つて、この不思議な景色をぢつと眺めていらつしやいましたが、やがて膝を御進めになりますと、 「良秀、」と、鋭く御呼びかけになりました。 良秀は何やら御返事を致したやうでございますが、私の耳には唯、唸るやうな声しか聞えて参りません。 「良秀。 今宵はその方の望み通り、車に火をかけて見せて遣はさう。 」 大殿様はかう仰有つて、御側の者たちの方を 流 ( なが )し 眄 ( め )に御覧になりました。 その時何か大殿様と御側の誰彼との間には、意味ありげな微笑が交されたやうにも見うけましたが、これは或は私の気のせゐかも分りません。 すると良秀は 畏 ( おそ )る 畏 ( おそ )る頭を挙げて御縁の上を仰いだらしうございますが、やはり何も申し上げずに控へて居ります。 「よう見い。 それは予が日頃乗る車ぢや。 その方も覚えがあらう。 」 大殿様は又言を御止めになつて、御側の者たちに ( めくば )せをなさいました。 それから急に苦々しい御調子で、「その内には罪人の女房が一人、 縛 ( いまし )めた儘、乗せてある。 されば車に火をかけたら、必定その女めは肉を焼き骨を焦して、四苦八苦の最期を遂げるであらう。 その方が屏風を仕上げるには、又とないよい手本ぢや。 雪のやうな肌が燃え 爛 ( たゞ )れるのを見のがすな。 黒髪が火の粉になつて、舞ひ上るさまもよう見て置け。 」 大殿様は三度口を 御噤 ( おつぐ )みになりましたが、何を御思ひになつたのか、今度は唯肩を揺つて、声も立てずに御笑ひなさりながら、 「末代までもない観物ぢや。 予もここで見物しよう。 それ/\、 簾 ( みす )を揚げて、良秀に中の女を見せて遣さぬか。 」 仰 ( おほせ )を聞くと仕丁の一人は、片手に 松明 ( まつ )の火を高くかざしながら、つか/\と車に近づくと、矢庭に片手をさし伸ばして、簾をさらりと揚げて見せました。 きらびやかな 繍 ( ぬひ )のある桜の 唐衣 ( からぎぬ )にすべらかし黒髪が艶やかに垂れて、うちかたむいた黄金の 釵子 ( さいし )も美しく輝いて見えましたが、身なりこそ違へ、小造りな体つきは、色の白い 頸 ( うなじ )のあたりは、さうしてあの寂しい位つゝましやかな横顔は、良秀の娘に相違ございません。 私は危く叫び声を立てようと致しました。 その時でございます。 私と向ひあつてゐた侍は 慌 ( あわたゞ )しく身を起して、 柄頭 ( つかがしら )を片手に抑へながら、 屹 ( きつ )と良秀の方を睨みました。 それに驚いて眺めますと、あの男はこの景色に、半ば正気を失つたのでございませう。 今まで下に 蹲 ( うづくま )つてゐたのが、急に飛び立つたと思ひますと、両手を前へ伸した儘、車の方へ思はず知らず走りかゝらうと致しました。 唯生憎前にも申しました通り、遠い影の中に居りますので、 顔貌 ( かほかたち )ははつきりと分りません。 しかしさう思つたのはほんの一瞬間で、色を失つた良秀の顔は、いや、まるで何か目に見えない力が、宙へ吊り上げたやうな良秀の姿は、忽ちうす暗がりを切り抜いてあり/\と眼前へ浮び上りました。 娘を乗せた檳榔毛の車が、この時、「火をかけい」と云ふ大殿様の御言と共に、仕丁たちが投げる松明の火を浴びて炎々と燃え上つたのでございます。 火は見る/\中に、 車蓋 ( やかた )をつゝみました。 いや、それよりもめらめらと舌を吐いて 袖格子 ( そでがうし )に 搦 ( から )みながら、 半空 ( なかぞら )までも立ち昇る烈々とした炎の色は、まるで日輪が地に落ちて、 天火 ( てんくわ )が 迸 ( ほとばし )つたやうだとでも申しませうか。 前に危く叫ばうとした私も、今は全く 魂 ( たましひ )を消して、唯茫然と口を開きながら、この恐ろしい光景を見守るより外はございませんでした。 思はず知らず車の方へ駆け寄らうとしたあの男は、火が燃え上ると同時に、足を止めて、やはり手をさし伸した儘、食ひ入るばかりの眼つきをして、車をつゝむ焔煙を吸ひつけられたやうに眺めて居りましたが、満身に浴びた火の光で、皺だらけな醜い顔は、髭の先までもよく見えます。 首を 刎 ( は )ねられる前の盗人でも、乃至は十王の庁へ引き出された、十逆五悪の罪人でも、あゝまで苦しさうな顔を致しますまい。 これには流石にあの 強力 ( がうりき )の侍でさへ、思はず色を変へて、畏る/\大殿様の御顔を仰ぎました。 が、大殿様は 緊 ( かた )く唇を御噛みになりながら、時々気味悪く御笑ひになつて、眼も放さずぢつと車の方を御見つめになつていらつしやいます。 殊に夜風が 一下 ( ひとおろ )しして、煙が向うへ靡いた時、赤い上に金粉を 撒 ( ま )いたやうな、焔の中から浮き上つて、髪を口に噛みながら、 縛 ( いましめ )の鎖も切れるばかり身悶えをした有様は、地獄の業苦を目のあたりへ写し出したかと疑はれて、私始め強力の侍までおのづと身の毛がよだちました。 さう云ふ音が暗い空を、どことも知らず走つたと思ふと、忽ち何か黒いものが、地にもつかず宙にも飛ばず、 鞠 ( まり )のやうに躍りながら、御所の屋根から火の燃えさかる車の中へ、一文字にとびこみました。 さうして朱塗のやうな袖格子が、ばら/\と焼け落ちる中に、のけ 反 ( ぞ )つた娘の肩を抱いて、 帛 ( きぬ )を裂くやうな鋭い声を、何とも云へず苦しさうに、長く煙の外へ飛ばせました。 壁代 ( かべしろ )のやうな焔を後にして、娘の肩に 縋 ( すが )つてゐるのは、堀河の御邸に繋いであつた、あの良秀と 諢名 ( あだな )のある、猿だつたのでございますから。 その猿が何処をどうしてこの御所まで、忍んで来たか、それは勿論誰にもわかりません。 が、日頃可愛がつてくれた娘なればこそ、猿も一しよに火の中へはひつたのでございませう。 が、猿の姿が見えたのは、ほんの一瞬間でございました。 金梨子地 ( きんなしぢ )のやうな火の粉が一しきり、ぱつと空へ上つたかと思ふ中に、猿は元より娘の姿も、黒煙の底に隠されて、御庭のまん中には唯、一輛の火の車が 凄 ( すさま )じい音を立てながら、 燃 ( も )え 沸 ( たぎ )つてゐるばかりでございます。 いや、火の車と云ふよりも、或は火の柱と云つた方が、あの星空を衝いて煮え返る、恐ろしい火焔の有様にはふさはしいかも知れません。 あのさつきまで地獄の 責苦 ( せめく )に悩んでゐたやうな良秀は、今は云ひやうのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしつかり胸に組んで、 佇 ( たゝず )んでゐるではございませんか。 それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映つてゐないやうなのでございます。 しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断末魔を嬉しさうに眺めてゐた、そればかりではございません。 その時の良秀には、何故か人間とは思はれない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな 厳 ( おごそか )さがございました。 でございますから不意の火の手に驚いて、啼き騒ぎながら飛びまはる数の知れない夜鳥でさへ、気のせゐか良秀の揉烏帽子のまはりへは、近づかなかつたやうでございます。 恐らくは無心の鳥の眼にも、あの男の頭の上に、円光の如く懸つてゐる、不可思議な威厳が見えたのでございませう。 鳥でさへさうでございます。 まして私たちは仕丁までも、皆息をひそめながら、身の内も震へるばかり、異様な随喜の心に充ち満ちて、まるで開眼の仏でも見るやうに、眼も離さず、良秀を見つめました。 が、その中でたつた、御縁の上の大殿様だけは、まるで別人かと思はれる程、御顔の色も青ざめて、口元に泡を御ためになりながら、紫の 指貫 ( さしぬき )の膝を両手にしつかり御つかみになつて、丁度喉の渇いた獣のやうに 喘 ( あへ )ぎつゞけていらつしやいました。 …… その夜雪解の御所で、大殿様が車を御焼きになつた事は、誰の口からともなく世上へ洩れましたが、それに就いては随分いろ/\な批判を致すものも居つたやうでございます。 が、大殿様の思召しは、全く車を焼き人を殺してまでも、屏風の画を描かうとする絵師根性の 曲 ( よこしま )なのを懲らす 御心算 ( おつもり )だつたのに相違ございません。 現に私は、大殿様が御口づからさう 仰有 ( おつしや )るのを伺つた事さへございます。 それからあの良秀が、目前で娘を焼き殺されながら、それでも屏風の画を描きたいと云ふその木石のやうな心もちが、やはり何かとあげつらはれたやうでございます。 中にはあの男を 罵 ( のゝし )つて、画の為には親子の情愛も忘れてしまふ、人面獣心の 曲者 ( くせもの )だなどと申すものもございました。 あの 横川 ( よがは )の僧都様などは、かう云ふ考へに味方をなすつた御一人で、「如何に一芸一能に秀でやうとも、人として五常を 弁 ( わきま )へねば、地獄に堕ちる外はない」などと、よく仰有つたものでございます。 所がその後一月ばかり 経 ( た )つて、愈々地獄変の屏風が出来上りますと良秀は早速それを御邸へ持つて出て、恭しく大殿様の御覧に供へました。 丁度その時は僧都様も御居合はせになりましたが、屏風の画を一目御覧になりますと、流石にあの一帖の天地に吹き 荒 ( すさ )んでゐる火の嵐の恐しさに御驚きなすつたのでございませう。 それまでは苦い顔をなさりながら、良秀の方をじろ/\睨めつけていらしつたのが、思はず知らず膝を打つて、「出かし居つた」と仰有いました。 この言を御聞きになつて、大殿様が苦笑なすつた時の御容子も、未だに私は忘れません。 それ以来あの男を悪く云ふものは、少くとも御邸の中だけでは、殆ど一人もゐなくなりました。 誰でもあの屏風を見るものは、如何に日頃良秀を憎く思つてゐるにせよ、不思議に 厳 ( おごそ )かな心もちに打たれて、炎熱地獄の 大苦艱 ( だいくげん )を如実に感じるからでもございませうか。 しかしさうなつた時分には、良秀はもうこの世に無い人の数にはいつて居りました。 それも屏風の出来上つた次の夜に、自分の部屋の 梁 ( はり )へ縄をかけて、 縊 ( くび )れ死んだのでございます。 一人娘を先立てたあの男は、恐らく安閑として生きながらへるのに堪へなかつたのでございませう。 屍骸は今でもあの男の家の跡に埋まつて居ります。 尤も小さな 標 ( しるし )の石は、その後何十年かの 雨風 ( あめかぜ )に 曝 ( さら )されて、とうの昔誰の墓とも知れないやうに、 苔蒸 ( こけむ )してゐるにちがひございません。

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袴垂、保昌に会ふこと(「宇治拾遺物語」) 問題

指貫 現代仮名遣い

服制の歴史 >>服制の歴史 服制の歴史 飛鳥時代 冠位十二階を定めた聖徳太子の時代の服制は定かではありません。 かつての1万円札で有名な伝「聖徳太子図像」は、奈良時代の服制による武官ものですから参考にはなりません。 わずかに太子没後に制作された「天寿国繍帳」にある人物像が、当時の服制をたどるよすがとなります。 さらに天武朝になりますと、唐の影響を受けた服制がもたらされているようで、これは高松塚古墳壁画の図像に見ることができます。 特徴的なのは前の打ち合わせが左前であることで、これはそれまでわが国・中国を問わず連綿と引き継がれてきた習慣でした。 これは古墳から出土される埴輪でも確認されます。 当時の服制は明確ではありません。 官位制度は複雑になりましたが基本的には冠により区別され、たとえば藤原鎌足が「大織冠」の位を贈られたなど、服よりも冠に重点が置かれたようです。 奈良時代 礼冠 奈良時代にはいると、唐の制度を受けて服制は刷新され、律令に基づく明確な法律「衣服令」(えぶくりょう)が定められました。 この服制はほとんど唐の制度をまねたもので、これを受けた養老令(養老二年)では礼服(らいぶく)・朝服(ちょうぶく)・制服(せいぶく)が定められています。 礼服は重儀に用いられるもので、後には即位の大礼にのみ用いられ、明治天皇の父君孝明天皇の御即位までこれが用いられました。 あまりに特殊であるのでこのHPでは礼服には触れませんが、完全に唐風のものです。 朝服は官吏の勤務服です。 これが発展して束帯や衣冠になりました。 文官は脇を縫った縫腋(ほうえき)の袍、武官は活動しやすいように腋を縫わない闕腋(けってき)の袍を用いました。 冠は黒の羅で、五位以上は有文、六位以下は無文。 文官は2本の纓(えい)を後ろに垂らし(垂纓)、武官は活動の便を図って上に巻き上げました(巻纓)。 ここで興味深いのは武官が帯剣する際に剣を結ぶ帯を「倭織(しずおり)」と言い、わが国独自の原始的平織物を用いていることです。 いかに服制が唐風になっても、武人の魂たる剣は和風でありたいという気持ちであったのでしょうか。 この倭織の帯は後に「平緒」という飾りになりますが、紫だん(だんだら染め)などが多用されているのは、倭織の名残とも考えられます。 朝服は後の袍と比較すると袖幅も細く、現代の洋服のように活動的でした。 また袍を束ねる帯も「びじょう」が付いた現代そっくりの皮ベルトで、後の石帯よりも機能的ではありました。 こうした動きやすい朝服が国風文化の興隆と共に次第に緩やかで幅広のシルエットに変化して袍になったのです。 制服は無位無冠の庶民が公事に従事する際の服で、朝服に似たものです。 色は黄色とされましたが、この無位=黄色は明治まで引き継がれました。 こうして律令の定めは形を変えながらも原則として明治まで生きていました。 装束については今日でも準拠していると言えるでしょう。 なお元正天皇の養老三年 719 二月三日、「初令天下百姓右襟」と定められ、今までの左前(左袵・さじん)が右前(右袵・うじん)となりました。 このとき同時に官人に把笏を命じています。 前年に遣唐使が帰国していますから、その報告によって世界最先端かつ国際ルールとしての唐の風俗にならったものでしょう。 ちなみに左前は騎乗で矢を射るときに矢が服に当たることがないため、中国北方騎馬民族が愛用しました(さらに言えば、右前は刀を抜くとき鍔がひっかかりにくいという理由もあるそうです)。 そのため、唐はそれまで自分たちも用いていた左前を蛮人風俗と忌み嫌い、右前に改めたと言われています。 平安時代 束帯の原型? 平安時代末期、12世紀の神像に見られる束帯姿に 着色してみました。 神像ということで冠に極端なデフォルメも見られますが、 細身のシルエットに高い詰め襟など、古式の朝服式束帯 を彷彿とさせます。 同様の神像はこの時代に多く造られています。 初期の頃は奈良時代のままでしたが、中期頃から国風文化の影響を受けてきます。 すべてが幅広で、ゆったりとしたものになり、武官の服装もとても戦闘に向かない形式的なものになりました。 藤原時代になりますと服色も現代と同じく黒・緋・縹の三色に集約されるなど、服制の面ではほぼ今日どおりになってきます。 狩衣が公家階級の平常着になるのもこの頃です。 重ね色目の定めもこの時代から起こってきます。 前代の平服が次代の礼服になるのは世の常ですが、直衣に冠を付けて宮中に参内できるようになったり、宮中でも束帯よりも(本来宿直装束の)衣冠が通常着になったり、なし崩し的に軽便な方式に切り替わってきました。 これは律令政治の崩壊と期を一にしていることです。 「平安時代」と言っても400年間もあり、一口には語れません。 ふつう簡単に「平安装束」というように言われますが、実は清少納言や紫式部の頃の装束の実相はよく判っていないのです。 平安末期(院政時代) 摂関政治が衰え、院政時代が始まると武家の勢力が増大してきます。 武家は公家よりも活動的な衣服を好み、また華美に走ることもなかったために、狩衣を公服として用いました。 官位があればもちろん束帯も着用しましたが、公家ほど利用はしなかったようです。 この風潮がこの時代以降続きます。 たとえば水干は本来狩衣のように上げ頚で着用するものですが、この襟を内側に折り込んで今日の着物のように着たりすることもこの頃から始まります。 裾も袴に着込めて活動しやすくしました。 こうした装束の変化が直垂になり、肩衣になり、裃に変化していくことになるのです。 公家装束では鳥羽上皇の時代に画期的な変化が起こりました。 剛装束(こわしょうぞく)の登場です。 糊で固めた厚めの布、きわめて幅広のシルエット、現代のものとほぼ同じ装束です。 これではとても一人では着用できなくなり、衣文道が生まれてくるのです。 この動きは公家が政治の第一線から退き、華美に走り、活動的でなくなったことをも意味しています。 特徴的なことの一つは冠です。 纓(えい)はそれまで、冠の巾子(こじ)を締めた紐の名残で二本の布が後ろにだらりと垂れていました(武官は活動のため端を上に巻き上げていました)。 ところが剛装束になると、纓は巾子の後ろから一度上がって下に垂れる形式になります。 当然芯がなくてはこうはなりませんから、鯨のヒゲなどで形作り、そこに布を張って纓としました。 武官はこれを巻くために、くるりとまん丸の巻纓(けんえい)になりました。 院政時代はまださほど纓が高くありませんが、時代を経るに従って、立ち上がりが高くなります。 ただし今日に至るまで、巾子よりも高くしないことを定法とします(天皇の立纓冠を除く)。 また、この頃から男女ともに下着に白い小袖を着るようになります。 それまでは単が下着であったのです。 この時代には束帯はほとんど儀式のみに用いられるようになりました。 院政では当然参内より院参が多くなるため、堅苦しい宮中と違って簡略化が目立ち、冠直衣が公服化しました。 直衣の色(冬白・夏二藍など)や文様についての細かいきまりが生まれてくるのはそのせいかもしれません。 今に伝わる「有職故実」のうち朝廷儀式に関すること以外は、この院政時代から鎌倉時代にかけて生まれ、室町時代に完成したものと言えるでしょう。 鎌倉・室町時代 公家はまったく政治の実権を失い、儀式も自己目的となるに従って、細かな有職故実や衣紋道が成立しました。 装束は前例踏襲を旨とするようになります。 水干までもが公家の平常着に進出してしまうようになりました。 武家は狩衣を公服とし、水干が改まった服、直垂が平常着になります。 水干をVネックに着る方法を「垂頸(たりくび)」と言います(通常の着方は「上頸(あげくび)」)。 この着方から直垂(ひたたれ)が生まれました。 直垂が装束直系なのは現代の着物と異なって脇が縫われていないことで判ります。 戦国・安土桃山時代・江戸初期 京は戦乱がうち続いて荒廃し、公家も各地に散らばるなど、装束に凝るどころの時代ではありませんでした。 天皇の袍の黄櫨染色の作出技術も失われ、それまで天皇の第二色であった「青色(青鳩色)」の袍が天皇の第一色になりました。 応仁の乱から後の100年余りは公家文化が完全に途絶した期間であり、それ以前と以後では、かなり違った物になっていると言えます。 江戸時代中期〜後期に「装束御再興」運動が起きるまでは、平安以来の故実から隔絶された時代が続きました。 織田信長は尊皇の意志が強く、有職故実家である山科家とのつながりもあって公事復興に力を示します。 続く豊臣・徳川も政治的配慮もあってか尊皇を建て前として即位の大礼に資金を投じるなど、さまざまな面で装束の復興に力を注ぎました。 しかし後年軽視された「寛永有職」という言葉があるように、当時の装束は古式とは似ても似つかず、能装束のような布で袍を作るなど、非常に混乱したものであったようです。 江戸時代 幕府は公家勢力の力を押さえるために「禁中並公家諸法度」を定め、衣服のことにまで制限を加えました。 が、一方では享保以後には「ご再興」と称して乱れた服制を有職故実に則った形に戻そうという動きもありました。 天皇の袍の黄櫨染色もこの頃から復興しています。 幕府の服制は第一位が束帯でしたが、これは将軍宣下などの重要公事にのみ用いられ、その他の場合は身分に応じて、直垂・狩衣・大文・布衣・素襖の階級に分かれていました。 この時代になると狩衣は第一礼装とも呼べるクラスまで出世しています。 また指貫も簡略化されて普通の袴のように下を切った「差袴」が多用されるようになり、狩衣のみならず衣冠の場合ですら利用されるようになりました。 宮中の衣冠に於いてさえ一日と十五日のみ指貫(このころから奴袴・ぬばかまとも呼ばれるようになりました)で、それ以外は差袴が普通になってしまいました。 この時代の公家装束で特徴的なのは、袍や狩衣の襟(首上)が極端に低くなり、襟ぐりも大きくなって、下に着ている単や白小袖が襟から見えるようになったことと、冠に掛け緒を使うようになったことです。 冠は本来は簪で巾子に入れた髪を突き刺して留めていたのですが、この時代は月代(さかやき)を剃るようになって髪が減ったためにこれができなくなり、掛け緒で固定する必要が生じたのです。 これにより冠や烏帽子は小型化し、頭にちょこんと乗っているだけのようなものになりました。 女房装束でも、宮中女官が白小袖に緋袴が通常服となり、袴の緒を肩に掛ける「大腰姿」という変わった着方もされました。 また裳には「掛け帯」というものを肩から前に掛けて結ぶ、平安時代にはなかったものも用いられ、さらに髪型も(もともとは京都吉原習俗の)「おすべらかし」という大仰な形が取り入れられました。 こうした故実にない装束は元和6(1620)年の徳川和子入内から少しずつ是正され、天保15(1844)年、のちの孝明天皇御元服の「御再興」で改められましたが、女房の髪型が「おすべらかし」であるように、装束も多くの面で平安時代とは懸け離れたものになっています。。 今日目にする装束のほとんどがこの頃の形式のものなのです。 公家は各家の家格や職掌が世襲化し、その家独自の文様などが生まれました。 袍でも大臣になるまでは輪無唐草や轡唐草などの通用文でしたが、大臣任官の後は各家独自の文を織りだして用いるといったことが行われるようになりました。 万事旧習を墨守することが尊重された時代だったのです。 このころの公家の経済的困窮は著しく、装束も満足に整えることは困難で貸衣裳に頼ることもあったようです。 京には「若狭屋」「鍵屋」などの貸衣裳屋があり、黒袍・縹袍装束一式を百疋、赤袍装束一式二百疋で貸し付け、その他供奉の随身装束まで一式を貸していた言う話が伝わっています。 明治時代 王政復古に伴い、当初は和風重視の風潮がありました。 明治天皇即位の大礼に礼服でなく束帯を用いたのもこのためです。 慶應3年(1867)年12月に万機ご一新の告諭がなされましたが、当時は混乱期で服制どころではなく、「冠以下官服類追々制度立てさせらるべく候得共、まずそれまでの処、従来のまゝ着用これあるべき旨、仰出され候事」との布令がなされました。 西欧嗜好の強い西園寺公望が便利だからと勝手に洋服で参内して物議を醸したのもこのころです。 しかし当時の極端な近代化の流れにおいては、あまりに形式化した装束はもはや時代にそぐわないものとされてしまいます。 明治4年(1871年)の初夏、宮中において服制改革についての会議が開かれました。 太政大臣三条実美の「今日の議事内容は我が国の風俗についての大改革であり、主上のご身辺に関することでもあるので充分なご審議をいただきたい。 服装は大礼の根本である。 開化進取の方針に従い、この際、洋服に一定然るべしという提案が出ており、これに対しての意見を承りたい」との挨拶で白熱の議論はスタート。 洋服推進派の後藤象二郎は「洋服は起居進退があきらかに便利ではないか。 この際、旧来の因循姑息を退け、世界を渡り歩く気概を養うためにも大英断をもって洋服を採用すべし」と主張しましたが、「便宜上の理由だけで長い伝統の服装を一気に改めようとするのは言語道断である。 外国人に製作を依頼するのは外交上も風下に立つことになり、また国費が海外に流出することにもなる。 主上の御衣服も変更申し上げねばならないが、なんとも畏れ多いことである。 なんでも外国を模倣すれば良いとする考え方は承服できない」という反対意見も出ました。 これに対して副島種臣は「利便性、外交上の得失、経済上の損失という論議ばかりだが、これは失礼ながら枝葉末節の論議である。 かつて趙の武霊王が胡の国を制するに胡服を用い大勝したという故事がある。 わが国の天業が正義をもって世界に臨むことであることを考えれば、この武霊王の例に倣い、この際洋服を用いるべきである」と話をまとめ、さらに参議西郷隆盛が「副島どんの『胡服をして胡を制す』の意見に賛成でごわす」と重みのある発言。 ここに廟議は決しました。 まず明治4年8月9日、官吏および華士族に対して「散髪、脱刀及び洋服、勝手たるべし」という御沙汰があり、明治4年9月4日に「服制を改むるの勅諭」が発せられました。 「朕惟うに、風俗なる者移換以って時の宜しきに随い、国体なる者不抜以って其勢を制す、今衣冠の制、中古唐制に模倣せしより流れて軟弱の風をなす、朕これをはなはだなげく、それ神州武をもって治むるやもとより久し、天子親 みずか らこれが元帥となり、衆庶以て其風を仰ぐ、神武創業、神功征韓の如き決て今日の風姿にあらず、豈に一日も軟弱以て天下に示すべけんや、朕今断然その服制を更 あらた め、その風俗を一新し、祖宗以来尚武の国体を立たんと欲す、汝近臣それ朕が意を体せよ。 」 かなり衣冠に厳しい表現ですが、富国強兵には衣冠は向かない、ということは確かだったでしょう。 ちなみにお歯黒・眉墨は明治3年2月5日に「華族自今元服の輩、歯を染め、眉を掃き候儀、停止仰出され候事」(太政官日誌)、明治6年3月3日には「皇太后宮、皇后宮、御黛 まゆずみ 、御鉄漿 おはぐろ 廃され候」(宮内省仰出)と廃止されています。 さらに明治5年11月12日太政官布告第339号「大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為シ直垂狩衣上下等ヲ廃ス」が布告され、「爾今禮服には洋服を採用す」「衣冠を祭服とす」と定められ、翌年狩衣を衣冠の代用服とせられました。 ここに装束は公事服としての役割を洋服に譲り、神事専用服へと変化するのです。 しかし皇室においては儀式には束帯以下各種装束が用いられ、現在に至っています。 (余談:明治百年に当たる昭和47年に全日本洋服協同組合連合会が、太政官布告の出た11月12日を「洋服記念日」と定めました。 これについて記載したWebサイトの多くは太政官布告を「330号」としていますが、これはどこかで間違ったままコピーされ続けているのでしょう。 正しくは339号です。 この布告は昭和29年法律第203号「内閣及び総理府関係法令の整理に関する法律」で廃止されるまで効力を持っていました。 ) 現代 今日、神職以外で装束を着用するのは皇室関係と国技相撲関係者くらいなものでしょう。 後者は行司が土俵で神事を行う際に用いるのですが、白狩衣(浄衣)に冠を付けるなど、いささか有職故実にそぐわないものです。 一方、さすがに皇室は戦前からの装束の伝統を受け継いでいます。 天皇の黄櫨染御束帯や白色小葵文の御引直衣、皇太子の黄丹の袍、親王の黒色雲鶴文の袍など、まったく旧習を守ったものです。 ただし天皇の冠「立纓冠」の纓が直立しているのは明治以降のもので、現在では束帯は即位・御成婚などの重儀にのみ着用され、通常の神事などでは衣冠が正式礼装とされています。 装束は(1)正装=衣冠、(2)礼装=斎服、(3)常装=狩衣・浄衣に分類され、正装は大祭および天皇陛下の御参拝に際して着用、礼装は中祭、常装は小祭および諸式に用いると定められました。 神職と神社に関する豆知識は を参照してください。 神職の祭祀服装に関する規程 (表記の一部を現代仮名遣いに読み替え) 第一条 神職の祭祀服装は、正装、礼装およぴ常装の三種とし、その服制は別表による。 第ニ条 正装は、左の場合に用いる。 一 大祭の場合 ニ 天皇 三后 皇太子または皇大孫御参拝の場合 第三条 礼装は、中祭の場合に用いる。 第四条 常装は、小祭及び神社において行う恒例式の場合に用いる。 第五条 当分のあいだ、礼装をもって正装に代えることができる。 神社において由緒ある式年祭その他これに類する厳儀奉仕上、特に必要のあるときは、その神社の宮司に限り、統理の承認を受けて、その当日一等級上位の正装を用いることができる。 当該神社に古例がある場合は、その古例に従うことができる。 神事又は礼典の場合には、斎服、狩衣、常服、浄衣その他の祭祀に適する服装を用いることができる。 附則 本規程は昭和ニ十一年六月一日より之を施行する 附則(昭和三十九年六月十日規程第ニ号) 本規程は、昭和三十九年七月一日より之を施行する。 ニ級上正装衣冠およぴ袿袴の袴は、昭和三十九年五月末日までに昇級したものについては、 当分のあいだ従前の「紫固織裏同色平絹無文緯白」を用いることができる。 正装(衣冠) 身分等級 特級 一級 二級上 二級 三級 四級 袍の色 袍の文 輪無唐草 輪無唐草 輪無唐草 輪無唐草 無文 無文 指貫・ 差袴の色 指貫の文 八藤丸文 大文白 八藤丸文 紫緯白 八藤丸文 紫緯共 無文 紫平絹 無文 浅葱平絹 無文 浅葱平絹 冠 垂纓繁文 垂纓繁文 垂纓繁文 垂纓繁文 垂纓遠文 垂纓遠文 袍は旧官員の制度に準じています。 特級・一級は勅任官の黒袍、二級上・二級は奏任官の赤袍、三級・四級は判任官の縹袍です。 ただし縹は古制にならい、「緑袍」と称して、実際にグリーンがかった縹色になっています。 一時期、二級上の袍色を藤色にしようという検討もなされましたが、故実にない色目であり品位にも欠けると判断されて見送られたようです。 指貫も官員の制度に準拠していますが、本来は赤袍の指貫は紫平絹です。 二級上の指貫・差袴は当初の規定によれば緯白紫固織(無文)でした。 その後昭和39年に八藤丸文(規則上は八藤文も地と同じ紫)を認められています。 一級の袴は緯糸が白であるため全体の色が紫より白ばんでいます。 一方、二級上の袴は緯糸が薄紫のため、文が薄紫、全体が赤紫の色になっています。 この色目は有職故実には見あたらないものです。 特級の白地白八藤は画面上グレー処理してあります。 特級の八藤丸文は一回り大きい大文です。 三〜四級の浅葱は、通常は上記のような色ですが、作業の多い若手の袴としては汚れやすいと言う実情からか、縹に近い濃いめのブルーを着用することもあるようです。 規程では色見本まではないため、そのあたりは弾力的に運用されています。 正装は大祭(例祭・祈年祭・新嘗祭・遷座祭など)、天皇陛下の御参拝に際して着用します。 礼装(斎服) 各階級同じで、冠は垂纓遠文、白絹の裏なしの袍、白絹の差袴となります。 礼装は中祭(歳旦歳・紀元祭・天長祭など)に着用します。 常装(狩衣・浄衣) 狩衣は織地、色(禁色を除く)、文はまったく自由で三・四級が裏を付けられないこと、袖括りの緒が二級以上が薄平、三級以下が左右縒であること以外は各階級共通です。 立烏帽子もまた同じです。 ただし、指貫(または差袴)は正服に準じます。 浄衣は白狩衣白差袴で各階級同じです。 常装は小祭(大中祭以外の祭祀及び大祓式などの恒例式)、日常の奉仕に着用します。 その他の装束 (その他の祭祀に適する服装) 現在、地鎮祭などで出張する神職が用いるのは「格衣(かくえ)」が多いようです。 これは直垂の上衣の脇を縫ったもので、羽織のように簡単に着ることができるので多用されています。 白小袖の上に羽織り、差袴着用、立烏帽子をかぶります。 また闕腋袍のような白い袍である「明衣(みょうえ)」や、袍の代わりに小直衣を用いることもあるようです。 女子神職の服制についてはをご参照ください。

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